つぶやき:「したがう」を「うたがう」に

お久しぶりです。サトウでございます。

1か月近く、なにをやっていたのかと言いますと、新たに俳句大会に応募したり、ちょっくら風景を見に外出したりもしました。しかし冬はまだ去らない…。

あ、そうそう。角川『俳句』2月号の令和俳壇では佳作の上、秀逸の選に選ばれたりもしました。パチパチ。

もう半端な俳句は詠めないですね((( ^o^)))

近況報告はここまで。

本題に入りますね。

森喜朗氏の女性蔑視発言、世間では大変騒がれてますね。

「真意は違うのだから全文読んでみろ」と言われて全文読みました。あんな上から目線で自分にとって望ましい女性像を語られるのもなかなか気持ち悪い。

もっと気持ち悪いのは、そんな女性蔑視発言に対して、「森さんだから」と忖度してるのか、五輪委員会の面々がなにも言わないことです。

しかし、森喜朗氏の発言に代表される「気持ち悪さ」は、長らく常態化しておりました。女性がものを言わないのを良しとする風潮、淑やかさやスマートさを否が応でも求められる女性。あらゆる権力にはびこる男性的要素(それは力強さとか、或いはスタミナとか)。私たちは見て見ぬふりをしてきました。いや、本当は見えていたはずのものを、聞こえていたはずの声を、「世間の常識」という尺度に押し込めていただけなのかもしれません。

「したがう」、これは一見するとすごく楽なことです。けれども、理不尽なことやいわれのないことに対し歯を食いしばり、神経をすり減らして、終いに心を空っぽにしたとき、私たちの人格は間違いなく死にます。こんな腐った社会で、私たち一人ひとりの人格を守り抜くためには、理不尽を押しつけてきた「権力」や「常識」の数々に異議を唱える力が必要です。

たった一文字変えるだけ。

「うたがう」、これは一見するととても辛いことです。犯人探しになるかもしれない、争いになるかもしれない。

大丈夫。

たとえば「派遣社員の彼女がなぜ頑張らなければならないのだろう」と疑ってみて下さい。男性上司に必死についていく姿、収入もそれほどないのかもしれない。

なぜ?

男性が中心となって引っ張る社会、野放しの貧困。

なぜ?

この「当たり前」はなぜ作られてきたのか。

「うたがう」は力です。権力や常識や理不尽を跳ね返す力です。そして、頑張る彼女のすり減る心を救う力でもあります。常に考え、疑うことが、人格を守り抜く営為となります。

下敷きとなって「したがう」のでは、みんな権力のステレオタイプに嵌まるだけです。紋切り型の回答はまっぴら御免。みんなが下敷きの位置にいることを「うたがう」ことで、世界の色は変わります。きっと。

創作においても同じ。目の前の光景に「したがう」頭では何も生み出せません。「犬が吠えている、離れよう」、それで終わり?
当たり前にある光景を「うたがう」頭があれば、ものの見方はがらりと変わります。「犬が吠えている。なぜ?あ、お腹が空いているのかな?エサをあげよう」、という行動変容につながります。物語が始まるのです。もしエサをあげても吠え続けるなら、「なぜ」の物語は続きます。創作者の脳には「うたがい」がつきものです。

創作者の皆さん。もっと世界に目を向けて下さい。新聞、本、雑誌など、あらゆる情報に目を通して下さい。「うたがう」為の源は知識です。そして「なぜ」という疑問符です。世界を創り上げ、現実と戦わせること。創作にはダイナミズムがあります。「うたがう」が創り上げるものの力を信じましょう。

話が長くてすいません。わきまえないものですから。サトウジンでした。

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