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2024/03/02-03/03 JUGGZINE合宿@京都

2024/3/2(土),3/3(日)に、京都にJUGGZINE合宿に出かけた日記を書く。

同じくJUGGZINE編集部メンバーの板津さんの以下のnoteを合わせて読むと面白いかもしれない。


3/2(土)

土曜の昼過ぎに京都駅に着く。若干の寝不足だった。
京都駅のインフォメーションで、「イッタラ展」のチラシを手に取る。この前、岐阜でフィンランドグラスアートの展示を見たので、「イッタラ」の名前を知っていたのだ。
ガラス特有の素材のこと(透明感があり、落としたら割れるが、高温では溶解する)と、日用品とアートの間にある品物のことについて、思い出していた。

京都駅から梅小路公園へ向かう。同じくJUGGZINE編集部メンバーのAbeshiさんの居る「フリースタイルな交流会」を見に行くためだ。
その前に、公園の近くのご飯屋「サンビーム」でカレーを食べる。私が知らない店にふらっと入るのは、旅の時くらいしかない。

梅小路公園の別の一角では、手づくり市が催されていた。

梅小路公園の手づくり市。ジャンルは雑多(食べ物とかも売ってた)。

交流会は、フリースタイルフットボーラーの人が多かった。ヨーヨーや、ジャグリングをしている人もいた。(交流会をやっているスペースには「スケートボード禁止」の看板があり、名指しされていることを複雑に思う。)
私が予想したよりも平均年齢が低くて驚いた。子供たちが多くいたのだ。おそらく何かに所属とかはせず、単に公園に遊びに来ている子らもいたのだろう。
私は少しディアボロを教わりディアボロバレーで遊んだ後は、ほぼフリースタイラーたちの風景を見ていた。
遠くから来ている人もいたのだろうか、お土産などのお菓子がバラバラと交換され、私もいただいた。お酒を片手に練習する人もいて。
私にとってとても新鮮な場所だった。

アベシさんから教わったロープの「あや」と「ゆる」の二つの概念?技?については、とても興味深かった。単に運動技法というよりも、思想と一緒になっていそうなのでGOOD。あと、私が緩やかなものを好むというのもある。

公園で、同じくJUGGZINE編集部メンバーの山下氏も合流し、夕方過ぎ、集合時間前に他のメンバーと合流するため、「さいか亭」へ向かう。中華メインの居酒屋のようだ。

「さいか亭」は、QRコードを読んで客が自分のスマホで注文するシステムだった。

夜、宿泊地(宇多野ユースホステル)までバスで移動。

D3に並ぶ。

宿泊地に到着する。
ユースホステルは、旅と若者の、特有の思想・文脈の上にある文化だが、まあ、おおよその思想基盤は、少年自然の家とか、ボーイスカウトみたいなのと同じようなものだ。賛同できる部分もあれば、話半分に流している部分もある。(現代では、単にインドに行って自分探しみたいな時代ではないので、旅!学び!素晴らしい!みたいな単純な話では無い。)

宿泊部屋のファイルの一ページ目には、『混雑した教室に無限の世界を詰め込むことは不可能です。ですから学校は世界に出て行かなければいけません。』とのユースホステル文化創始者のドイツ人教師の文言がある。
ここでもまた、子供たちのことを考える。子供・若者らには、どんな世界を見せたいだろうか?
いったい、この世界のどこを、何を見るべきなのか?

二部屋に分かれ、入浴を済ませた後、ボードゲームで深夜まで遊ぶ。
「ジャグリング合宿あるある」や「ジャグリング人生ゲーム」の話などをするが、お酒が入ってからの私は役に立たないので、詳しくはよく覚えていない。

3/3(日)午前

翌朝、8時間睡眠には明らかに足りない時間に起き、持ってきた本のうちの一冊、「なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門」を途中まで読んでいた。
8時からの朝食を食べた後、起きてこない面子を起こしに行く。普段は一人暮らしのため「誰かを眠りから起こす」というのを久々にした。

10時にチェックアウト。
花田氏とアベシ氏は別行動。(私は、一緒に旅に来た同行者と別行動になること(別行動をしてもいい関係性)をどこか良いことのように思っている節がある。)
私は、旅は「街を歩くこと」だと思っているので、仁和寺まで一緒に他のメンバーについていって散歩をすることにする。以下は、散歩中のアルバム。

何てシンプルな看板。最低限の情報量。
色づいていないセブンイレブン。
見かけたレンタサイクルのイラスト。良い。

仁和寺へ。

「JUXURY」という広告屋が造ったような言葉を初めて知る。
庭園の写真は撮らなかったので、そこら辺の切り株コーナーを。
五重塔は、遠くから見るものであって、下から上に見上げるものではない、のか?
キノコの裏面のような味わいがある。

庭園では、滝の良さ(「水」というモノ・素材の流れる状態の良さ)を再確認したり、「水石」について思い出したりした。
私は信心深くないので好んで寺社仏閣に参ることはしないが、場所としては好きな部類に入る。「静かであること」をつまらない、退屈だと感じる人もいれば、心地良く思う人もいるだろう、と仁和寺に来ていた子供連れの家族を見て思う。

お寺の中に、陶器の器や香炉を売っている馥郁窯(ふくいくがま)と、お酒の出店(酒造元の名前は不明、お酒の名前は忘れた)があった。どちらのお店の方も、営業トークをしてくれるので楽しい(押し売りは苦手だが)。
藤色の陶器は珍しいのだとか。桜柄のマグカップとか、買ってもいいなと思うくらい綺麗だった。
試飲で日本酒をもらう。美味しいとも感じたが、別に進んでは買わなかった。(私はアルコール特有のお手軽な快楽の取得方法について距離を置くことにしている。)

仁和寺を出て、お昼ご飯は「Kabe家」へ。カウンターのみ8席の蕎麦屋。普段は入らないタイプのお店だ。温かいかけそばに、お揚げと牛蒡のご飯セットにした。美味しかった。

気になった看板の「あげた亭」には入らず。

ユースホステルに戻る途中で、和菓子屋「船屋秋月」に寄る。せっかくの三月三日なので、桜餅と花見団子を買う。

会議にて

本題の、午後からのJUGGZINE会議にて、私が原稿に入れたいと思っていることについて喋った一幕があった。自分の中でもまとまってないまま話したが、重要なトピックが紛れていたと思っている。
以下、メモ書きとして書き留める。(その場で話していない内容を含む。)

僕ら、居合わせることができなかった

私の身体は一つしかなく、同時に一つの場所にしかいられない。
”あなた”が重要な場面に、私はその場にいられないことだろう。たとえ一緒に暮らしていたとしても、ずっと24時間そばには居られないのだから。(これは子育てのことも示唆している。親であっても子にずっと付いていられるわけではない。)
それは、+と-の両方の「私がそこにいたら何かできたかもしれない」というような例がありえる。あなたが生まれる瞬間、何かを達成した瞬間など、寿がれるべきときや、または、あなたが傷つく瞬間など、守られる・ケアされるべきときといったことだ。

身体パフォーマンスや、イベント(リアル/ネット)の文脈において、「居合わせる」ことの重要性を一方では理解しつつ、私は「居合わせることができない」ことについても考えたい。
なぜなら、私が「居合わせることができない」人達の方が、この世界には多いからだ。また、私にとって大事な人達(「大事だから、そばにいる人達」と言い換えてもいい)についても、「居合わせることができなかった」ことはある。例えば、私は私の親の生まれた瞬間に居合わせることは不可能だ。私は私の子の死ぬ瞬間に居合わせることはできるだろうか?

電報(弔電・祝電)、置き手紙、言伝、日記、海に手紙を入れたボトルを流す?UFOへ向けて信号を送る?
「書くこと」は、私が居合わせない者に対して行うことができる方法のひとつであり、私は書くことを、祈りの仕方としても重要にしているのかもしれない。(「書くこと」の情報伝達の発明という側面より、居合わせないことへの祈りとしての側面を強調したい。)

私のこの日記も、合宿に不参加のメンバーに向けて書いている節もある。

『ジャグリングばっか上手くなってどうする?』への回答

私の今年の原稿は、去年の5月の大橋昂汰氏のnoteを受けて、私なりのアンサー、私が子供に対して思うこととかを書く予定だ。

ユースホステルの思想を受けてではないが、『この世界のなかで「ジャグリング」は見るべき・体験するべきである世界の一部分だ』と子供達の保護者や”大人”たちに主張するときの言葉が足りていないのかもしれない、と思った。
ジャグリング以外のものが溢れているこの世界で、なぜジャグリングなのか。

私が好んで聞く小林大吾の「ジャグリング」という曲があるが、そこに出てくる『なのにジャグリングばっか上手くなってどうする』という台詞を思い出し、この問いに私は答えるべきかもしれない、と思った。真面目にこの問いに答えている”大人”がいたら教えて欲しい。

私の回答は、ジャグリングというものを、①社会の中で位置づける・価値づけること、②人生の中で位置づける・価値づけることにつながるだろう。
ジャグリングは「遊び」だ、とするとき、「遊び」がどうやら社会や人生において独特の(切り離された?、または軽んじられている?)位置にあるために、ジャグリングの意義深さが伝わらないことがあるとしたら、それはもったいない。その「問題」に対して、私が文章でできることがあるかもしれない。例えば、ジャグリングという営みの特有さを明らかにすることによって。

私が子供に対して思うこと

私は子供好きな人間ではないし、どちらかと言えば苦手な方だ。
「私が”子供に対して”思うこと」と書いたが、正確にはあらゆる人間に対して私は以下の二つのことを思っている。「子供に対して」としているのは、上記の大橋氏のnoteに引っ張られているのと、後はリップサービスだ。

自己変容性や他者との違いのあることを踏まえた上で、自己決定や自己表現を恐れず積極的にして欲しい。
キーワードは「実績解除」、「一本道でないこと」、「はたがはためく」。
生きる中で、美を気にかけて欲しい。
それはいわゆる美術や芸術だけでなく、自分が「美しい」と感じるもの一般、さらには「美しい」という言葉を使わないような「なんだか良い( It feels good)」と感じる対象と自分との関係について、深く考え、実践していくこと。

上記の二つについて、美学やゲーム論を横目に、パフォーマンス/サーカス的な分野を意識しつつジャグリング中心に書けたら最善だと考えている。
JUGGZINE2023の拙稿から引き続き、生き方や愛の話に触れることになるかもしれない。

3/3(日)夜

会議は、ジャグリング運動を含めて、18時半頃?まで続き、活動資料として集合写真を撮ってお開き。
アベシ氏と別れ、京都駅へバスで向かう。
京都ヨドバシで夕ご飯を食べる。ここもタブレットで注文する方式だった。
花田氏のイベントレポートの話を聞き、みみず氏の「菜食生活十年」に私からコメントをし、夜遅くなる前に解散となった。

帰りの電車で、きぞはるさんと少し話した。
私達が住んでいる地元地域にも、まだ知らないジャグリングをする人達がいるかもしれないこと、私が長崎とか尼崎とか(子どもを含む、地域ジャグリングコミュニティ)を見に行きたいと思っていること。

個人的なことを言えば、今回の合宿で一番私に残っているのは、きぞはる氏の振舞いだった。詳しく述べることは差し控えるが、会議時や、ユースホステルから京都駅までのバス車内など、きぞはる氏が娘さんに見せる親としての態度に、私はくらってしまった。

以上、良い旅だった。
いい出会いや、(必ずしも大きく盛り上がったり、ドラマチックであるわけではない)重要な会話があったことは、良い合宿だったと思う。


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