ジャグリング・ユニット・フラトレス第8回公演「ボーダーライン」【再演】評

「もう一回、同じのを? なんで?」
「それが、同じじゃあないんですよ。」
実際、同じじゃなかった。

フライヤー

どうも、じんです。短めに観劇評を書く。

第8回公演「ボーダーライン」【再演】

2024/12/14-15(土・日)に、ジャグリング・ユニット・フラトレスの「ボーダーライン【再演】」がやっていたので、12/15に観に行った。@大阪市立芸術創造館。
今回の公演では毎ステージ終演後イベントをやっていたが、私が観たのは最終の4ステージ目で、ビッグトスアップに参加した。
2ステージ目の後のアフタートークは瀬戸内サーカスファクトリーの田中未知子さんとの対談だったようだが、日程が合わず聞けず。

さて、再演の評価にあたっては、私の場合は2019年の初演の話をしなければならないだろう。(5年前!の第4回公演も私は観に行ったのだった。)

初演のときの私の観劇評は上記の記事へ飛んで読んでほしいが、今回、私は「初演からどんなふうに変わっているだろう?」という視点で見ていた。
フラトレス10周年企画として、再演の報を聞いたときにまず私が思ったことが「なぜ同じのを?」と言う疑問だったからだ。「それほど人気だったのだろうか、あるいはやり残したことが?」なんて憶測をして。

今回の再演の所感を端的に言えば、
・初演よりも、より良くなった(より私好みになった)
・そうそう、これがフラトレスの味
という感じで、フラトレス食堂の定食で出すならこれかなあ、と思った。
どこに出しても恥ずかしくない味になっていると思う。(上から目線で我ながら嫌な客だな。)

観ている段階で、初演からところどころ変わっている(芝居面でもジャグリング面でも)のが分かった。見ながら気づいた一番の変更点は、ジャグリングのシーンについてで、ボールとリングを使った奇怪な生き物(深海魚?)たちのシーンと、デビルスティックを使った海底の骨(死骸)のシーンが新しく入ったな、ということだ。
代わりにスティックでの殺陣のシーンがなくなっていた。また、シェイカーカップのジャグリングシーンもなくなったのかな?その辺は記憶が曖昧だ(映像を手に入れていないので)。
初演と同じく今回も台本を物販で買ってきたので読み返すと、やはり脚本段階から書き換わっているようだ。

二面舞台で客席が前後両側にあること(私は裏から観た)や、ストーリーの大筋や、「境界線」「水」といったモチーフは変わっていないようだが、私が受け取った印象は初演と違った。
今回の再演全体で私が感じた、初演との印象の差異は、
1.人間ドラマよりも、海(水中)という場所・情景を描くように、描写対象の焦点が移った
2.初演で感じた、「ボーダーライン」の境界線の「正しさ/過ち(罪)」の意味付けが薄れている
という二点だ。

また、私が初演の感想で挙げた改善すべきと感じた点については、演出の変更や、後述する描写の焦点の修正によって、適切に改善されていると感じた。


1.情景へ焦点を当てた描写

海(水中)という場所・情景を描いている、新しく追加されたジャグリングのシーンを見てみよう。

一つ目は、港町へ立ち入った探偵たちを囲む、港町の住人たちのシーンだ。1リングと1ボールを使ったジャグリングの演出により、奇怪な生き物たちの生態を描写する結果となった(これを「ジャグリング」ではないとする見解をもつ人もいるだろう)。このシーンでは、探偵たちに危害を加えうる攻撃性の描写というよりも、とにかく彼らの奇妙さ(誤解を恐れず言えば、「おかしい;weird」人?魚?たち)を描写していたように感じた。
ここで出てきた三人のジャグラーを私は高く評価したい。彼らを「ジャグリングが上手い」として評価する評価軸をまだジャグリング界隈は有していないのではないか?

私が彼らを見て想像したのは、深海魚、つまり、変な恰好や生態に(その場所・環境に適応するために)「進化」した生き物たちだ。(後述する2.の観点から言えば、その奇妙さに悪さ/罪はない。)
そして、彼らの存在を踏まえた上で、「人魚」と呼ばれる女(少女の母親)のことを考えると、「人魚」の半人半妖性により解釈の広がりが出てくる。(彼女、人魚もどこかで適応し、「“正しい”人間」から外れ、ボーダーラインの上に乗っているということ。)

二つ目は、デビルスティックを使った海底の骨(大きな魚の死骸)のシーンだ。
ここでは、死骸の腑分けをしつつも、言葉によって、海の中での生き方の掟が言及される。(ジャグリングはあるものの、静けさが言葉を際立てる。)

『群れることは身を守ることだ。一匹を餌食に、多くが生き残る。』
『一度踏み越えたらもう戻れない。深く深くへ沈んでいくだけ。』

ここで、骨による「死」のイメージを提示し、しかしそれが、海(水中)の生命のサイクル(生存戦略)の言及と一緒になっていることや、海底の骨の画づくり自体の美しさのために、悲劇的なドラマというよりも、まさに静かな海底のありさまをただ描写しているような印象となった。
一つ目の深海魚のシーンと同様、そこにあるがままの情景を描いていて、そこでの情景描写は中立的、つまりその善悪の評価や、主人公(ミナモ)の持つ感情・印象からは距離が置かれているように感じるのだ。
この点は2.への印象の変化へと通じる。


2.境界線の「正しさ/過ち(罪)」の意味付け

私が、人間ドラマよりも情景描写に焦点を置いていると感じた理由は、初演と比較して、「正しさ/過ち(罪)」の境界線の意味付けにつながる演出やシーン時間が減って、1.での海(水中)の情景描写に充てられ、陸/海を、善/悪の二分法に当てはめるライン引きの印象が薄まったように感じたからだ。
具体的には、人魚の罪(殺害シーン)の描写の変更(というか、直接的には殺人の描写は削られている)、スティックでの殺陣(探偵側と港町住人側との直接的対決の演出)の変更、ミナモの人魚への攻撃的描写の変更など。
また、今回の脚本台本には、見る限り「罪」の文字は見当たらない。(「手を汚す」といった表現では出てくる。また、「正義」の語は一箇所出てくる。)

港町の人間は、『生きる為なら手を汚すことも厭わない、境界線を踏み越えた人間』だという。(探偵の台詞より)
しかし、海底の骨のシーンでの海中の生き方の掟を踏まえると、探偵側(陸の世界)とは別のもう一つの論理があることを提示してはいるが、それが”悪いもの”だという描き方はされていない、との解釈ができる。(それが生存戦略のための合理的な判断結果なのだ、という擁護の仕方。)

人魚が少女を捨てたこと、また「人を沈めた」ことの言及はあるが、少女を捨てたことについては『生き延びるために捨てなきゃいけないものがあった』との人魚の言がある。また、「海に逃げ込んだ」、「地上では生きられない「人魚」」といった影の中の群衆(コロス;choros)の言葉がある。
また、ミナモが親に捨てられてから孤児院に入る間に、港町の住人と同じように生きる為に(盗みなど)手を汚したことがあるという独白もあり、海側の論理を悪と切り捨てるのであればミナモの立ち位置も難しくなってしまう。

港町でミナモが住人に襲われる際に出てくる、魚の「側線」器官の話では、ミナモは安全な生活のなかで『退化』していると言われているのだ。1.でも言及したが、海の中で環境に適した進化をした結果の生態を、異なる論理から成るという理由付けだけで悪と評価することは正しくない。

生きる場所を求めていた人魚は、「海に逃げ込んだ」、「地上では生きられない「人魚」」と言われる一方で、「この街は水の中と同じ、息苦しい」と自身では言う。完全に魚として適応し、海中で生きることができているのなら、息苦しさは無いはずだ。人魚はその中に少女を気にかける気持ちがまだ残っており、立ち位置としては実は、港町の住人側と探偵側との間にいると言ってもいい。(「人魚」という半人半妖の生き物は、陸にも海にも居場所がないのだとしたら、どこに生きていく場所があるのだろうか。)
ここに、ある種の人間讃歌があるように感じる。(あるいはそれは、私たち人間は、本当に魚にはなれないのだ、という絶望の裏返しでもある。)
この作品では、単に陸上と異なる海中の情景を描き出すだけではなく、やはり「人間」についても何がしかを描こうとしている。
初演の感想では、私はそれを親子間の人間関係における赦しのカタルシスだと書いているが、再演で私が感じたのは次のことだった。それは、私たち人間が、どうしても(人として)境界線を越えることに逡巡してしまうような、最後に手放せない尊厳を維持するために、もがくのだ、ということだ。
それを、海中の世界(の奇怪な生き物たち)を描写して対比させることで、「人間らしさ」(※この言葉は慎重に扱う必要があるが)として描き出そうとしている。

この意味で、陸/海のライン引きによる対比が、「正しさ/過ち(罪)」の対比へのそのままの重なり合わせが薄まった今回でも、物語の筋に対して機能していると言える。(初演の感想からの持論を引いてきて言えば、ジャグリング文脈で海中の情景を描写したことの物語文脈上の機能が「逆に陸側に留まろうとする「人間」讃歌を浮かび上がらせるためのもの」として果されているから、作品構造的に面白い。)


フラトレスの情景描写の良さと、今後

さて、再演を観て、改めてフラトレスの良さであると感じたのは、ジャグリングを用いた情景描写だった。
ここでの「情景」描写は、単に現実生活にある物をジャグリング道具で見立てるといったものだけでなく、心象風景の描写を含む。
初演の感想では、私は次のように書いている。

「美しい画」はフラトレスの持つ良さの一つだが、舞台美術という視点で、ジャグリング道具を使って単なる「画作り」をするというのは演劇の従来からある価値軸の延長線上に位置づけられるだろう。ジャグリングの技術を使ったとしても、そこでの価値はいかほど変化するか。

https://note.com/jin00_seiron/n/nd787640f5481

「美しい画」を生み出す劇団もジャグリングカンパニーも、おそらく少なくはない。ただし、画作りに独自の視点が込められていけば、フラトレスの価値は非常に高まるだろう。
それは例えば、ジャグリングというものがモノと親しいことから、人ならざるモノたち(物、生き物(動物・植物・その他怪物や妖怪や幽霊など諸々)、現象、etc.)の視点から世界観を描いていく、といったことだ。(ここで私はアクターネットワーク理論の「アクター」の話を思い浮かべている。)
それはファンタジックな幻想にも、人間社会の変な新解釈の提示にも、なるだろう。今作での海中の情景描写は、私に今後の期待を持たせるのに十分だった。


今作が私の好みだったのは、単に、私の心象風景と合致していたという理由もある。私の心象風景にあるのは「静かな青」だが、私がフラトレスに持っているイメージも同様だ。
フラトレスのイメージで私が連想するのは、例えば、イラストレーターのgracile氏の海の絵。

また、イラストレーターのならの氏の青を基調とした絵。

ちなみに、ならの氏は今年、作品集『THE VISUAL ならの作品集 境界の向こう側』を出している。

また、Galileo GalileiのアルバムCD『POTAL』(2012年)。


閑話休題。

作品の中でのジャグリングを用いた情景描写の比重を重くしていくと、フラトレスのもう一つの武器である「言葉」の量が対照的に減っていくため、その中でどのような言葉を入れていくか、何を語っていくかということ、そして選択した言葉の適切さがさらに厳しくみられることになる。

今年のJJF2024のゲストステージにもフラトレスは出ているが、その短篇集のような作品群の中で、少女が内緒で夜のお出かけをする内容の、ポエトリーリーディングのような作品があった。
私は「ボーダーライン」以外のフラトレスの最近の作風を知らなかった為、ほぼ言葉のみで構成されたその挑戦作にとても驚いたのだが、全体の物語はさておき、語の選択、韻律、リズム、音の運び、といった各個別の点から批評がなされることだろう。

ジャグリングを用いた情景描写と、そこに合わさる言葉(物語)という形式の独自性によって、どのような良さの提示ができるのか。
まだまだ開拓できるとは思う中で、今作のような一つの形が完成したことを素直に称賛したい。

以上、相変わらず終演後のアンケートに感想を書かなかった代わりに、このnoteを私の観劇評とする。
フラトレス10周年、おめでとうございました。

じん

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