ぼんやり
以前このnoteに書きましたが、過去の就職先で出会った「新聞社における差別的表現」との向き合い方について、書いたことの微調整をしたいと思います。
自力で、リサーチして、根源である「倫理規定」の不在を突き止めたとして、その先に進めるかどうかについて、考えました。
先に進むとは、その新聞社に倫理規定を作り出すことかもしれませんし、社長の「この世は金だ」というルールを変えることかもしれません。
そんなことに、意味があるのか、問うてみることもできます。
実は、私は、その新聞社に養われたあるいは育てて貰った、というところまで、至ったわけではないので、そこに愛情がない、という主観の事実があります。
変わって欲しいと願うのは、愛情の発生した相手に対してなのであって、なんでもかんでも、倫理観にあわないものは変わって欲しいである、というのは、自分を養ってくれるものに対する破壊である場合がありますね。
養ってくれる場所でなければ、変える必要はない。
そう考えると、「無理をしない」という抽象的な言葉の紐解きがいくつか可能になります。
不満としては、こういうことを、「差別はいけない」という倫理観の教育において、セットで教えられていないという事実があります。
私個人の適正の問題かもしれませんね。
過去に私の受けた教育のもっと良い面に目を向けて見ましょう。
全体集会という、学内の学力格差について話し合う集会は、苦しかったですが、素晴らしいところもあります。
集会をサボっている知り合いと喋って、「いかへんの」と声をかけたら、「行くで」とレスポンスされる。
このときの自己肯定感は、私にとって宝です。
これは体験によって得たものです。
もし、レクチャーで,「社会を変えるには、こちらが信頼しましょう」などと教えられていたら、どうなっていたでしょうか。
恐らくもっと酷いことになっていたと思います。
追記
何故酷いことになる、と考えたかを、改めて問うてみると、信頼する、ということの私にとっての意味が、私の意図にそって、その人が変わっていく、という内容のみを、指しているからではないかと思います。
信頼されるためには、信頼することから、と人に言われたことがあるのですが、信頼される、ということの内容は、その人が変わってくれる、ということだけでは、必ずしもない。
では、信頼される、とはなんだろう、と考えましたが、途中で胡散無償しました。
お読みいただき、ありがとうございます。