大根おろしに学ぶ外れ値のはなし
寝なあかんのはわかっている。
そして考えてる内容がかつて書いたことあるかもしれんとも思っている。
それでも書かずには寝られそうにないので書いてしまうんだけど、息子に「後先考えて動けー!」ってどの口が言うてんねん、と自嘲せざるを得まい。
外れ値、という概念。
最大多数の最大幸福、という概念を社会のどっかでやったはずで、多くの国々や組織がこれを目標に邁進していると思われるのだけれど、ここからこぼれ落ちてしまう外れ値は何をどうやっても存在する。
外れ値ゼロの社会を作るという理想は、ないと方向性が定められないんだけどそれは理想で、理論値みたいなとこがある。
現実はそうはいかない。
実際のとこ、みんなが適量我慢する不幸(主観)の総値と、外れ値にあたった人の激烈な不幸(主観)の総値って、客観的にみると同じなんじゃないかと思っている。
外れ値が多ければ多いほど、同じ境遇の他社の存在に慰められたり励まされたり、未来に向けての期待はできる。
少なければ少ないほど、その孤独とか共感されない辛さ、そしてこのまま固定される残酷な未来の可能性は跳ね上がる。
こどもの頃は、人類を良い方に向かわせる数百年に一人の逸材が、例えばアフリカの飢餓で赤ん坊のうちに露と消えたり、なにかに阻まれてその能力を達成できないで消えていく可能性をはらむ現実が容認できなくて、優生学思想そのままに「生まれたときにそういう能力を検知してなんとか人類の力にできないのか」というSFも真っ青の夢を歯噛みしながら夢見てたりもした。そのくらい、社会全体の外れ値が許せなかったし絶対悪だと思っていた。
思えば、この「数百年に一人の逸材」というプラスの外れ値は容認しておきながら、マイナスの外れ値は容認できなかったのだ。なんてバランスの悪い。
で、長じて、主婦になり母になり、料理を趣味とするようになり、それでも面倒ランキングトップスリーぐらいに食い込む大根おろしをジョリジョリしていたときに、はたと気づいたことがあった。
大根おろし、せっかく作ってもおろし金にこびりついてどうしても皿に盛れないものがある。
大量につくるならまだしも、ちょびっと薬味系の量でも取り切れない量は同じぐらい。
で、水で流しながら気づいたのは
「これが外れ値だ」
ということ。
はなから大根おろしを作らなければ、外れ値は発生しない。
作るとなったら、そのほんの少しの「作ったけど流される」部分には目を瞑らないと、成果を味わえない。
いわば、何かを作ろうとするときに必ず発生してしまう犠牲なのだ。
人間社会で制度を作ろうとする場合にこれが適応される。
そして法治国家、すなわち明文化されたもので統制を取ろうとする社会においては、大岡裁きは適応されづらい。これを許すと明文化の根幹が揺らぐ。
明文化という抽象化の途中で置き去りにされる具体例はどうしても存在してしまうのだ。制度をどれだけ細かくしても、我々がひとりひとり違う生き物であり、それが集団をなして生活する以上、ゼロにすることはできない。
私に足りなかったのは、その残念な現実を受け入れる勇気、そしてその外れ値に自分が入ってしまうかもしれないという覚悟だった。
世の多くの人はよりよい社会を望む。
よりよい社会の究極は、生きとし生ける全員がセーフティネットにひっかかり、外れ値として辛い人生を送ることのない社会だ。
それを目指すのは大切だし、政治家はそれを目指すべきだとは思う。
ただ、その実現可能性を盲信し、自分の半径数キロだけをサンプルとして、実際に動いている人々に文句を言うだけのノイジーマイノリティにだけはなりたくないし、それを認める多様性社会は少なくとも私にとっては、きっとものすごくストレスの多い、住みづらいものになると思う。
それが、多様性社会がいうところの、一人ひとりがシェアすべき痛みなのかもしれないが。