つれづれ:考えなくていいときに考える
そもそも、エウレーカ!から始まり現代科学に至るまで、考えて考えて考えて…の最中で「ひらめいた!」ってのはあまり数がないように思う。
お風呂入ってるとき、目覚めてすぐ、走ってるときなどなど、考えることから少し離れて何かをしているとき、それまで考えて考えて考えて、のときに熟成された要素と要素が、自由運動の中でぶつかり合ってピコーンとなった、という例を数多聞く。
「はなしとして纏めてnoteに書きたい!」っていう内容も大概はそうで、長風呂してるときや自転車こいでるときなんかに端緒を見つけてズババババって考えが敷衍することが多いんだけど、そういうときってすぐにはメモがとれないのよね。で、メモが取れる環境まで落ち着いたら大体何考えてたか忘れてるというキレイなオチw
だからといって、どうせ纏められないわーって考えることを諦めていては、10回に1回訪れる「覚えてるから書く!」ってことにならないし、普段ちまちまコツコツ考えることっていうのは、そういうズババババに必要な要素を地道に集める作業に他ならないからやるんだけどさ。
不思議と、すぐにメモのとれる状況、たとえば掃除機かけてたり洗い物してたり本読んでたりってときには、同じ「考えることから離れている」状況であるにも関わらず、そういうズババババの瞬間はこないんだよねぇ。なんかもう天の配剤かよってぐらい。冗談じゃなくホントに何か宇宙のルールを作ってる存在がそうしてるんじゃないかと思うことがある。生物ができるだけ宇宙のルール、すなわち真理に近づかないようにしている、的な。
すごく印象に残ってるのが、NHKスペシャルかなんかでやってた、素数の配列かなんかでものすごい真理を発見した学者のひと、それまでは人付き合いとかも普通にする人だったのが、それを発見してから人が変わってしまって、一切の人間関係を断って隠居してる、みたいな話。
現代の人間には恐れ多くて触れてはいけないレベルの真理に、ひとり迷い込んで到達してしまったら、なんかそういう応報のようなものでもあるんだろうかと思った。
そういや昔かなりやばめに神経を病んでたんだけど、発症の瞬間のようなものを今でも覚えてて、お風呂入ってたときに(当時からそういうグルグル考えることをやってたわけだけど)そのグルグルがなんかすごい深いとこに入り込んで、ハッと「これは私は今世界の真理に気づいたのかもしれない」みたいな意識を強く感じたあの瞬間がそうだったんだと思う。
そして今やもうそれが何だったのか全くといっていいほど覚えてないんだけど(笑)闘病を通じてその辺の構造は覚えてても、具体的内容がデリートされてんだよね。治るってそういうことなのかもしれない。人間ごときにはアンタッチャブルなゾーンがあって、そこに触れちゃいけませんよ、安易に触れたらバチあたりますよ、みたいな。
多分知の巨人的な人は、「安易に」じゃなくて膨大な量のデータだとか情報だとかで足元をしっかりと拵えてから一歩一歩じわじわそっちに近づくから、ちょっとやそっとじゃ思考は飛躍しないし、一般人にとったらアンタッチャブルなゾーンであってもある程度の命綱だとかそういうものが準備されてるから「そちら側」に行かずにいられるのかもしれない。
ということを、「はなし」にできそうなことを結構思いついてるはずなのに何一つ覚えてない状態でつれづれ書いてみました。