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排気口「午睡荘園」を観て

観劇直後に求められる感想メッセージの記入、いわゆる「アンケート」が苦手だ。好きな展開や心に刺さった台詞も全体を踏まえなければ正確にその魅力を説明することができない。腑に落ちなかった点や自分の感性に合わなかった点はなおさらだ。よしんば、客電が灯ったあとの数分間で、先刻見たばかりの劇の内容を克明かつ深々と反芻できたとしても、脚本・演出家、役者の皆様の一瞥に耐える文章を的確で簡潔な表現を捻り出すことは到底できない。そうして結局、ややもすれば長文になる予感だけを敏感に感じとりながら、膝を下敷きにしてようやくしたためられるのは「とってもおもしろかったです、まる」。だが、2021年夏のコロナ禍でオリンピックの裏番組として開催された今回の排気口の舞台「午睡荘園」では、アンケートも、演者との挨拶もなかった。機会が設けられているならば、書かないことや挨拶しないことは、敢えてそれらをしないことになるが、今回は罪悪感を感じることなく、一日寝かせてじっくり考える機会を得た。そして、このテーマに問題意識を持ってきた私こそが、この舞台について書くべきだ、書かざるを得ない、との天啓を得た。

劇中の舞台は「ショッカー」の支部の一つである。本部からの命令で改造人間にされることが決まった団員の男、木戸の「送別会」の前後の出来事が描かれる。改造人間は仮面ライダーと闘うための兵士だが、ひとたび改造されると、ヒトだった頃の記憶や人格は失われてしまう。兵士ではない、兵器だ。ヒトとしての木戸に別れを告げる、そのための送別会である。世界征服という大願を成就すべく活動するショッカーたちにとっては、改造人間にされることは名誉なことであり、またその支部から初めて改造人間が選出されたこともあって、本来ならばこれは慶ばしいことである。だが、ショッカーの中には、組織の暴力性に向き合わず、居場所や連帯意識や恋愛感情といった私的な動機を主として活動を行っている者も少なくない。ヒトとしての木戸の死や、手が汚れる殺人には及び腰だ。そして、手術を翌日に控えた木戸自身もその例外でないことが、最終盤で明らかにされる。

無邪気に存在論的自我と葛藤する群像劇の中で、ひとり、規律を重んじてショッカーの世界征服の思想を体現しようとする女、フミが、観客の感性から離れた、ひときわ異質なものとして映る。団員の男のMendoriが、実はショッカー採用試験に合格しておらず、一般人だと判明した際の、彼に対するフミの、火がついたような、それでいてあまりに理路整然とした糾弾は、カルト組織のドグマティズムの体現だ。フミのこの発言は、「勇気だけしかない」女団員のチョロが、Mendoriに早稲田大学の学生団体の勧誘チラシを渡す場面と相俟って、作品の根底を流れる世界観を、とりわけ「ショッカー」の持つ寓意を、明白にする。「ショッカー」は、言うまでもなく特撮作品としての「仮面ライダー」の悪役の組織であるわけだが、この演劇においては、ショッカーのモチーフは、あえて断言しよう、極左系団体だ。中核派の渋谷暴動事件、連合赤軍の山岳ベース事件…世間の常識と乖離し、暴力への忌避性を失い、セクト間の抗争はおろか、仲間同士で『総括』という名のリンチが行われ、敵味方の区別をつけようとしてそれが出来ず、疑心暗鬼になり、やがて組織が、そして左派運動そのものが瓦解していった。世界の秩序を塗り替えることを目的とした組織が辿る悲劇を描いているのだ。サキエが突然連れてきた謎の男シフクをMendoriが殺すことになるのも、疑心暗鬼と暴力へのタガが外れたことによるものだ。(シフクについて附言すると、彼の正体は最後まで分からない。ショッカー本部の人間かもしれないし、皆が恐れたように私服警察官かもしれないし、サキエの兄かも知れない。いずれにせよ、自己紹介が下手で、帰れと言われても居座るような人間は、殺されても仕方あるまい)。Mendoriは、この行為の後に興味深い発言をしている。ショッカーからの脱退を宣言し逃亡を図るテツヤをチョロが射殺した際に、「チョロ、お前正しいよ。正しいことをするには勇気が必要だ」と言葉をかけるのだ。この発言は、対偶を取ると、『勇気が必要でないならば、正しいことをしていない』になる。目標への障害を乗り越える「勇気」を「正しさ」へと直に接続させてしまう、短絡的だが陥りやすい陥穽だ。さらに、Mendoriはフミにこうも告げる。「正しいことと間違っていることは、やる前に区別できない。やった後でないと区別できない」。これは、血を流す革命は将来的には正当化され得るという信念、急進的社会運動の理屈だ。これに対して、フミは「区別できる」と回答している。共に、暴力路線に身を投じる信念を持つMendoriとフミの両者の間に存するこの見解の相違は興味深い。また、Mendoriのこの思想はアカコのそれとも対比関係を持っている。アカコは、歴史的には否定的に評価される日本による太平洋への戦線拡大について、行為の時点では合理性があったと評価している。実行行為後に遡及的に行為の是非を判断する考えと、実行当時のタイミングに是非の判断基準をスライドさせる考えとの違いがある。結局のところ、正義を行おうとする際には、目的を同じくしているセクトの中でさえこのような齟齬が生まれることから逃れられない運命にあるのだろう。

さりとて、脚本家には、左翼組織それ自体の是非を論じる意図はないだろう。社会学的、心理学的視座に立てば、これはより普遍的な問題だ。彼らほど極端な活動をしないとしても、どの組織にも、程度の差はあれ、組織の理念や運動方針をめぐる相互批判やそれによる瓦解といった悲劇が起こり得る。サークルクラッシャーも、牽強付会すれば同じ理屈で説明可能だ。社会集団における個人の振る舞い、思想や行動の画一と、その合目的性や犠牲のバランス、歴史的評価は、いつだって手探りで曖昧なものだ。努力しても望むものが得られない不運(前日にテストで100点を取っても夏祭りのくじが当たらない)を背負った人の集まりならば、なおさらだ。だからこそ、フミの述べる「資格が必要。組織は規律によって組織たらしめられている。正義は規律によって均整化される」云々の言は、崇高な理想を掲げるカルト組織にのみならず、ある種の「正しさ」を共有せんとする団体ならば、受け入れるにせよ拒否するにせよ、向き合わねばならない普遍性を持つ鋭い指摘だ。

話を劇のストーリーへ戻す。ショッカーになるためには、ショッカーに己の全てを捧げることが求められているようだが、人が人として生きている以上は、それは原理的に不可能だ。ところがフミは、殺人そのものや、支部に対する本部組織からの道具的な扱いについて、心の何処かで疑問を感じつつも、それを拒否することはせず、組織の方針を内面化することに腐心する。彼女は自分に都合の良いものだけを選んだり、他の団員を私的な利益のために利用したりはせず、ショッカーとしての自覚を最も強く持ち、その思想を実現させようとしている。だが、彼女がそうする理由は、ショッカーの他には「何もない」から、故に、彼女自身が誰かに必要とされ、見棄てられることのないためだ。故に。彼女にとってショッカーの正義は、いかに「ゲロマズ」くても吐かずに飲み込まなければならないものなのだ。そう、もうお気づきだろうが、アカコやチョロがすぐさまに吐き出した、フミお手製の「焼きそば」、これは、アカコやチョロにはどうしても嚥下して内面化することのできない、フミの信じる「正義」の隠喩だ。もちろん、木戸が夏祭りから持ち帰ってきた「焼きそば」は、夏祭りに体現される平穏と幸福感に包まれた外の世界からもたらされた、別の「正義」である。ショッカーを捨てて、「間違っている」はずの外の世界へ逃げようとする木戸が、レミコを誘い、彼女へ差し出した夏祭りの「焼きそば」を、しかし、レミコは拒否する。レミコは変節を選ばない。木戸の、組織の、或いは自分自身の命の喪失を永遠に悲しみながら、それが直観的に齎す「正しさ」の只中に留まることを選んだのだ。それが、木戸に「あなたに死んでほしかった」と伝え、「フミの焼きそばを食べたい」と言ったレミコの気持ちだ。その悲しみの最中にあるはずのレミコが泣くことができないのは、恐らくこの悲しみを、加害と被害の構造を反転させ自己を正当化するための走狗としている自覚が何処かにあるゆえだろう。無論、一般市民的の感覚では、彼等によって理不尽に命を奪われる人々が居る一方で、悲劇のヒロインの気分で陶然とするレミコは、独善的であるとの誹りを免れないだろう。勇気と正義の混同もそうであるし、紐帯を求める孤独もそうであるが、このあまりに人間的な感情、原義としての「naive」(青臭さ、未熟で愚かなさま)な精神こそが、革命に身を投じる人の実際のところの精神性だったのだろう。我々観客は皆おそらく革命戦士でないから、凄惨な暴力的事件の形では表面化していないが、観客の我々のなかにこのような未熟さが全く無いとは言えやしまい。むしろ、私見では、こういったnaiveさは、自由主義者たちの利己的な精神性との比較において優劣をつけられるものではないと考える。自己とは関係のない、狂った組織の狂った行動だ、と話を収めるべきではないだろう。

やや引いて構造について語るならば、タイトルの通り、これは夢の話だ。日本語の「夢」はdreamの訳語として供される過程で、英語と同様に、眠る時に見る夢と、将来への希望的展望の両義を包含することになった。だが、言うまでもないが、両者は全く異なるわけではない。これらはどちらも目の前の現実からの「飛躍」である点で共通している。ショッカーの団員たちには夢がある。逃れたい現実から逃げ込む夢想もある。だが、いずれの意味にせよ「夢は一人で見るもの」なのだ。組織全体で一つの夢を見ることはできない。昼の微睡みのように、本来夢を見るべきときに夢を見られなかった者たちが、アナーキーな私的空間(=荘園)で、それぞれに自己本位で現実回避的な夢(午睡)に戯れているのだ。だが夢には終わりが必ずやってくる。そうして現実との擦り合わせの局面が生じたら、彼らに、いや私たちに、何ができるだろうかか。信念を持って生きている者に出来ることは、心を込めて火炎瓶を作って(筆者が2年前にしきりに愛用していた言葉だ)現実の社会を塗り替える運動に励むことだが、それが出来なくなったら。それが無駄だと気付いてしまったら。残された行為は、もちろん、そう、泣くことだけだ。

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