『幻想の終わりに――後期近代の政治・経済・文化』訳者解説公開
訳者解説 後期近代の批判的分析学
――アンドレアス・レクヴィッツ『幻想の終わりに』
訳者を代表して 橋本紘樹
アンドレアス・レクヴィッツは、近年数多の賞を立て続けに受賞しており、今日のドイツ語圏で最も注目を集め、高い評価を獲得している社会学者の一人である。そして、アカデミズムにおける成果は言うまでもなく、その活躍は広くメディア公共圏にまで及ぶ。彼の著作は、学術書にしては異例の売り上げを見せているほか、ドイツ連邦共和国首相のオーラフ・ショルツをはじめ主要な政治家たちも参考にするなど、いわば知識人の言説として大きな存在感を発揮しているのだ。加えて、国際的な反響も相当にあり、一五か国以上で翻訳が刊行されているほか、特に英米圏でも大きな関心が寄せられている。一方、そうした状況に比して、日本ではまだレクヴィッツという人物や思想についてほとんど知られていないため、本訳書について触れる前に、まずは彼の経歴と主要作品を簡単に紹介しておこう。
出発点は非常に興味深いものである。彼が修士号を取得したのはケンブリッジ大学で、それも、ハイ・モダニティや後期近代という概念を用い、独自の近代論を展開したイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの指導を受けていたようだ。そしてその後、一九九九年に『文化理論の変容――ある理論的プログラムの発展に関して』をハンブルク大学に提出し、博士号を取得している。この博士論文の中でレクヴィッツは、経済的利益だけを追求するホモ・エコノミクスや社会的役割を単に割り振られるホモ・ソシオロジクスといったモデルに還元できない、人間の「行為(Handlung)」と社会の関係に主軸を置く文化学的なアプローチの意義を確認した上で、その理論的発展史を再構成し、「社会的実践(soziale Praktik)」に焦点を当てた文化理論が社会理論の新たな基盤となりうることを主張している。
かかる理論史研究と社会を読み解く方法論の問題に取り組んだ後、レクヴィッツの研究主眼は、「近代」の分析へと移行していく。二〇〇六年には、前年にハンブルク大学に提出された教授資格請求論文『ハイブリッドな主体――市民的近代からポストモダンに至る主体文化の理論』が出版される。ここでは、タイトルから見て取れる通り、一八世紀から現代に至る各時代の主体文化や主体に関する言説が精緻に再構成されながら、近代における複合的な主体の形成過程が明らかにされている。この原著で七〇〇ページを超える、文化理論を背景に据えた本格的な近代論で教授資格を得ると、彼は二〇〇六年からコンスタンツ大学の一般社会学・文化社会学講座に教授として着任する。そして二〇一〇年から二〇二〇年にかけてはヴィアドリア欧州大学に所属を移し、比較文化社会学の講座を担当した。
この間に、『ハイブリッドな主体』に続く重要な著作として、二〇一二年に『創造性の発明――社会における美化のプロセスについて』が発表された。現代において、経済、政治、文化のあらゆる領域で、創造的に「新しいもの」を生み出すことが一つの命法として貫徹している。もとより近代初頭には芸術という一領域に限定されていた「創造性」が、一体なぜ社会全体の規範になり得たのだろうか。まずレクヴィッツは、ミシェル・フーコーの権力分析に、とりわけ、多様な日常実践や言説、制度から織り成される社会全体のネットワークを一定の方向に導く「装置」という構想に着目する。そして、創造的でありたいという願望と創造的であらねばならないという規範が密接に結びつき、新しいものの生産と受容を推し進めていく「創造性の装置」を後期近代社会の原動力と捉え、その状況を生み出すに至った歴史的過程を系譜学的に丹念に追跡していく。それにより、近代が新たな光のもとで照らし出されると同時に、現代の「常識」を捉え直す視座が提供されるのだ。この著作は、一般メディアでも大きく取り上げられ、二〇一四年にはドイツ出版社・書店協会賞(国際人文学部門)に輝いた。
その後二〇一七年に出され、一躍ベストセラーとなったのが、『独自性の社会―― 近代の構造転換』である。この作品では、『ハイブリッドな主体』と『創造性の発明』で得られた知見や理論的枠組みが活かされつつも、より一層社会理論的な問題設定がなされており、後期近代社会に特有の形態を導出することが主眼となっている。現代の社会を観察すると、インスタグラムにアップされる華やかな暮らし、個性を重視する学校教育、ルーティンワークではなく創造的でアイデアあふれる仕事が評価される労働世界、牽引力を喪失した国民政党、文化的多様性の推進など、平均や標準というモデルは時代遅れになったかに見える。では、どのような構造が社会を支配しているのだろうか。この問いに向き合うべく、レクヴィッツは、近代における「一般的なもの」と「特別なもの」との関係性に着目しながら、経済、技術、社会・文化それぞれの領域を総合的に考察していく。彼によれば、とりわけ一九五〇年代から六〇年代にかけて最盛期を迎え、「標準的なもの」が評価されていた工業的近代は、一九七〇年代以降、個性や唯一性、すなわち「独自性」に価値が見出される後期近代へと構造転換を遂げた。しかし、それは同時に、格差の拡大や社会の分断、自由民主主義の危機といった負の側面を必然的に生み出す仕組みとなっている。レクヴィッツによれば、現代が抱える課題とは、「一般的なものの危機」への向き合い方なのである。このように、極めてアクチュアルな分析と問題提起を行った『独自性の社会』は、二〇一七年にバイエルン書籍賞(実用書部門)を、二〇一八年には二度目となるドイツ出版社・書店協会賞(国際人文学部門)を受賞したほか、同年にライプツィヒ・ブックフェア賞の最終候補作品にも選出された。
二〇一九年には、『独自性の社会』のテーゼをより具体的で個別的な社会問題に応用した『幻想の終わりに――後期近代の経済・文化・社会』が上梓され、好評を博した――こちらの詳細は後段に譲りたい。こうした活躍が認められ、同年にレクヴィッツは、ドイツの学術界で最も権威ある賞の一つである、ドイツ研究振興協会(DFG)のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞を受賞し、二〇二〇年にはフンボルト大学(ベルリン)の一般社会学・文化社会学講座の教授に就任する。そして二〇二一年、ハイデルベルク科学アカデミーからアカデミー・メダル(Akademiemedaille)を授与される。まさに、時代の「スター」とも言える華々しいキャリアである。
本書『幻想の終わりに―― 後期近代の政治・経済・文化』は、Andreas Reckwitz, Das Ende der Illusionen — Politik, Ökonomie und Kultur in der Spätmoderne. Berlin 2019. の全訳である。先述したとおり、この著作は『独自性の社会』のいわば姉妹本に当たり、その枠組みをベースに議論が展開されている。それゆえ、レクヴィッツ自身も本書の「序章」で簡単に触れているが、まずは『独自性の社会』で展開される議論の骨格を抑えておく必要があるだろう。
『独自性の社会』ではまず、マックス・ヴェーバーが参照されながら、一八世紀初頭に西洋で始まった「近代」の構造として、「合理化(Rationalisierung)」のプロセスが分析の遡上に上げられる。近代は、慣習や伝統を基礎とするそれ以前の社会とは異なり、技術的、規範的な行動指針を与えてくれる計算可能な規則のもと、合理的な自然支配や社会形成を推し進めてきた。レクヴィッツが着目するのは、そうした合理化の裏に潜む「一般的なものの社会論理(soziale Logik des Allgemeinen)」である。この論理は、以下の四種類の社会的実践と深く関わっている。一つ目は「観察」であり、普遍的で一般的な概念や型を発展させ、それに即して世界のあらゆる要素(人間、自然、事物など)を把握し、分類する。二つ目は「評価」で、そうした概念や型に嵌まりこむものが、肯定的に捉えられ、正しいあるいは正常だと認識される。三つ目の「産出」では、それらが体系的に作りだされ、標準化され、相互に交換可能なものとして広がっていく。最後に四つ目の「習得」では、標準化され、交換可能な性質を持つものとの即物的な向き合い方が問題となり、世界のあらゆる要素が有用性や機能性といった観点で扱われるようになっていく。これら四種類の社会的実践からなる一般的なものの社会論理が、合理化のプロセスを駆動させてきたことは間違いない。しかし、それでは近代を半分しか理解していないことになる。一般的なものの裏には、それに抑圧される、あるいは対抗する「特別なもの」が必ず存在しているのだ。レクヴィッツは、近代の全貌を理解する上で、これまで焦点を当てられてこなかった「特別なものの社会論理(soziale Logik des Besonderen)」に目を向けるのである。
ただし、単に「特別なもの」といっても、いくつかのパターンが考えられる。特に、次の三つのモデルを意識することが重要である。まず、一般的なものの具体化である。例えば私たちの目の前にある椅子は、椅子という普遍的なイメージを具体化したものである。それは、「一般的なもの・特別なもの(das Allgemeine-Besondere)」と呼ぶことができる。続いて、「特異なもの(Idiosynkrasien)」である。こちらは一般的なものに分類され得ないだけでなく、「一般的なもの・特別なもの」とも異なる。例えば私が、もう使用していないが、特別な思い出が詰まっているが故に捨てられない椅子を物置に片付けたとする。この椅子は、社会で一般に認識されている椅子の役割を果たしておらず、一般的なものの範疇の外にある、異質な物体でしかない。「特別なもの」それ自体、と言っても良いかもしれない。そして、ある意味でこれら二つの間に位置するのが、「独自なもの(独自性)(Singularitäten)」である。これは、社会・文化的秩序の中で、すなわち社会的実践の中で、「特別なもの」として認識され、生み出される。先ほどの椅子を物置から引っ張り出してきて、流行りのアンティークとして部屋に飾れば、「独自な」椅子としてその魅力を発揮してくれるだろう。それは、一般的な椅子でもなければ、単なる異質な物体でもない。これら三つのモデルは、相互に孤立しているわけではなく、絶えず交差しながら「特別なものの社会論理」を動かしているのである。
なかでもレクヴィッツは、社会関係の中で生み出されていく「独自なもの(独自性)」に焦点を当て、先の一般的なものの社会論理に見られた四種類の社会的実践と区別しながら、その性質を明らかにしていく。まず「観察」である。一般的なものの論理においては、分類のための知識や能力が問題となっていたが、独自なものの論理において、対象は「唯一性」という特徴のもとに認識され、発見される。「評価」では、型に嵌まり込むかどうかという(一見)中立的な判断ではなく、対象に「価値」があるかどうかという「価値付与(Valorisierung)」が問題となり、高評価と低評価をめぐる軋轢に満ちたプロセスが生じてくる。「産出」では、標準的なものの大量生産ではなく、「独自性」に向けて、新しいものの創造に取り組まれるが、これは社会で価値評価されねばならないため、受容面をより一層考慮に入れた行為となる。最後に「習得」では、即物的な向き合い方ではなく、対象をいかに体験し、それに価値を見出すかが問題となるのである。
こうした「独自なもの」に集約される「特別なものの社会論理」と、「一般的なものの社会論理」の関係性に着目すれば、近代をより多角的に解釈することが可能になる。一八世紀初頭に始まったばかりの初期近代、レクヴィッツの用語で言うところの市民的近代では、伝統社会から脱却すべく、社会の合理化が推し進められると同時に、自律した主体の形成にも主眼が置かれた。つまり、「一般的なもの」と(個人性という意味での)「独自なもの」の両立がアンヴィヴァレントな形で追求されたのである。これは、主体の意志は普遍的立法に妥当すべきとする、イマヌエル・カントの定言命法に端的に表れている。芸術の領域でも、「天才」や「オリジナリティ」という発想のもと、唯一性を求めて美的に新しいものを創造する動きが始まる一方で、それはヒューマニティーや理性といった規範や教育理念と密接に結びつくものであった。やがて、こうした「特別なもの」と「一般的なもの」の統合をダイナミックに突き動かすロマン主義が登場する。ロマン主義では、主体は真正な自己であることを望み、そのために独自の体験を求める。それゆえ、体験する世界の諸要素もまた唯一無二でなければならず、独自化を必要とし、「特別なもの」が一挙に全面に押し出されることになる。とはいえ、こうした趨勢は社会全体に及ぶものではなく、市民層ないしは芸術分野に限定されたものだった。
次なる段階は、フォーディズムによる大量生産・大量消費体制の下で平均的な中間層が支配的となり、社会の合理化のプロセスが頂点を極めた、一九二〇年代から一九七〇年代までの工業的近代である。理想の生活モデルは、「世間に遅れを取らない」ことであった。その際、個人の教育は標準化され、芸術分野も文化産業にさらされる。また、マスメディアにも確かに「独自な」スターは存在するが、それは大多数の一般大衆には根本的に手の届かない存在でしかない。そうして、「特別なもの」は全面的に「一般的なもの」に従属するのだ。
形態は違えど、市民的近代や工業的近代においては、「一般的なもの」が社会のメインストリームであった。これら古典的近代―― そうレクヴィッツは呼ぶ―― の構造がはっきりと転換するのは、一九七〇~八〇年代以降の後期近代である。現在にまで続くこの時代には、「特別なもの」、すなわち個性や唯一性といった「独自性」がこの上ない重要性を帯びてくるのだが、それには相互に密接に関連し合う次の三つの要因がある。まず、大量生産の標準財に代わって、情報・知識・サービスが主力商品となり、第三次産業の比重が大幅に高まったポスト工業資本主義へと移行した。続いて、大学教育の拡大の恩恵を受け、従来の平均的な中産階級とは異なる、巨大都市圏で働く高学歴で高収入の「新たな中産階級」が誕生した。彼らは、もはや標準的な生活ではなく、個々の生活の質を追求し、「成功に満ちた自己実現」を人生の目標に据えている。そして最後に、デジタルの技術革命がそれらを後押しするインフラとして機能する。こうして、先に見た「特別なものの社会論理」が爆発的に展開されていくのである。もちろん、社会において「一般的なもの社会論理」ないしは「合理化」というプロセスが消失してしまったわけではない。しかし、その在り方は変化している。例えば、極めて合理的なシステムにより機能するSNSが、個人の独自性の表出・受容に焦点を当てて収益を上げているように、「一般的なもの社会論理」は「特別なものの社会論理」を支えるプラットフォームとなっているのだ。古典的近代と対照的なこの関係性の逆転こそが、後期近代のメルクマールに他ならない。
以上が『独自性の社会』の骨子であり、それをもとにレクヴィッツは、ポスト工業経済、デジタル化、中産階級の分裂と新たな階級構造、自由主義の問題を精査している。『幻想の終わりに』は、これらの問題意識をより簡略化しつつ先鋭化する形で(ときには新しい概念も導入しながら)再構成したもので、議論全体の見通しも良くなっている。さらには、個別具体的な政治・社会状況や裏づけとなる実証的データも数多く援用されているほか、後期近代社会の課題と向き合う方途が章ごとに提起されているという点にも特徴がある。まさしく、『独自性の社会』の入門編であると同時に実践編でもあるのだ。
いまいちど、簡単に各章の内容を確認しておこう。第一章「文化をめぐる戦いとしての文化間の軋轢――ハイパーカルチャーと文化本質主義」では、異なるアイデンティティを持った個々の文化が相互に衝突し合うというハンチントンのテーゼに疑義が呈されている。現代において問題となるのは、諸文化のパターンではなく、何を文化とみなすか、そして文化とどのように向き合うのか、というより根源的な点なのである。レクヴィッツは近代を特徴づけてきた「合理化」と対照させる形で、価値付与(ないしは価値の否認)が行われるプロセスを「文化化」と呼び、その相違が、ハイパーカルチャー(文化化Ⅰ)と文化本質主義(文化化Ⅱ)の対立として顕在化していると主張する。ハイパーカルチャーは、個人主義志向を持ち、全てのものを価値の対象にする。その担い手は、機能重視の工業製品を後にし、あらゆる所で価値の創出を目指す、グローバルでクリエイティブな市場と、各々の自己実現のための資源を探し求める新たな中産階級である。そうして双方が集結する大都市を中心に、多様性を促進するコスモポリタニズム的でリベラルな価値観が形成されていくのだ。文化本質主義は、共同体志向を持ち、文化を集団に共通の集合的アイデンティティとして捉え、「内」と「外」の区別を重要視する。「内」には自明の価値が付与され、「外」は無価値となり、境界を揺るがす流動性は忌避される。それは、後期近代社会で自らの社会的ステータスや影響力を喪失したと感じる者たちによって担われ、右派ポピュリズムや宗教原理主義といった形を取る。この二つの文化化のレジームの軋轢を前に、レクヴィッツは、集合体を志向するものの非本質主義的な文化化Ⅲの道を提案する。社会の不均質性を出発点にしつつ、構成員全員にとって価値のある一般的なものを絶えず修正しながら模索していく、「普遍性を実践すること(doing universality)」が求められるのである。
第二章「平準化された中間層社会から三つの階級の社会へ―― 新たな中産階級・古くからの中産階級・不安定な階級」では、現代における階級問題が語られている。しばしば「超富裕層」の問題が取り上げられるものの、彼らは全人口の一パーセントに過ぎないため、残りの九九パーセントの構造を解明することも必要不可欠である。工業的近代では、大量生産・大量消費のフォーディズム型経済のもとで、社会の大半がフルタイムの完全雇用で標準的な生活を送り、ドイツの社会学者ヘルムート・シェルスキーの言葉を借りれば「平準化された中間層社会」が形成されていた。しかし後期近代に入ると、クリエイティブでイノベーション志向のポスト工業経済、職業・専門教育を大学に導入し学生数増加をもたらした教育拡大、自己実現という目標やリベラル化に向かう価値の転換を主要因として、旧来の中間層は三つに分裂する。まず、巨大都市圏のポスト工業経済で活躍し、「成功に満ちた自己実現」を追求する高度人材の新たな中産階級であり、彼らは、グローバル化やハイブリッド化、流動性に対して肯定的な姿勢を取り、左派自由主義ないしは新自由主義を信奉する。続いて、工業的近代の中間層の相続人たる、古くからの中産階級である。彼らは、熟練労働者や昔からの事務職・サービス職、ないしは一般的な公務員の人々からなり、大都市ではなく地方で生活を営み、地域の繫がりや社会的義務、秩序を重視する。その際、ポスト工業社会で躍動する新たな中産階級と比較して、自らの社会的・文化的影響力の減少が意識されると、それが右派ポピュリズムへと流れることもある。そして最後に、一九八〇年以降の転換の波で、とりわけ経済的に中間層から脱落した新たな下層階級(不安定な階級)である。これに当てはまるのは、巨大都市圏のサービス業の中でも劣悪な待遇で働かざるを得ない人々、あるいは工業・農業部門に従事する人々であり、彼らは反復作業をこなす「低スキル人材」として扱われ、社会的ステータス、所得、安定を奪われている。政治的には、政治的無関心や社会的孤立といった道、ないしはネオ社会主義的な方向性、あるいは右派ポピュリズムへと流れていく。レクヴィッツによれば、これら三つの階級構造(あるいは上層階級も含めて三+一)を前提とした上で、さらに移民やジェンダー、地域、ミリューといった区分と関連づけながら、社会をより正確に把握し、未来の望むべきシナリオについて考えなければならないのだ。
第三章「工業社会を超えて―― 分極化したポスト工業主義と認知・文化資本主義」の対象は、ポスト工業経済である。さまざまな問題を抱えるこのポスト工業経済は、認知・文化資本主義という構造を有しており、まずはその成立の背景が問われねばならない。一九七〇年代に始まる工業経済の危機は、飽和の危機と生産性の危機の同時発生から生じてきたものだった。基本的な生活の快適さをもたらす標準的で機能的な商品が社会に行き渡ると、需要面は飽和し、供給面で生産性の問題を抱えるため、新分野を開拓せねばならない。そこで、従来の物質的需要を満たす有形財に対して、知的・文化的価値を有した非物質的な「無形財」の消費・生産が、デジタル化やオートメーション化、グローバル化、金融化、新自由主義などに後押しされて加速度的に進行した。一定の生活水準が達成されると、人々は生活の質を追求し始め、それが利益増大のためのチャンスとなるのだ。しかしそれにより、第二章で見た階級構造と重なり合う就業構造が生じてくる。独自性の財を生み出す経済の恩恵を受ける高度人材、次第に重要度を失う工業労働者や旧来のサラリーマン、そしてサービス業プロレタリアートである。では、こうした構造を抱える認知・文化資本主義の問題はどこにあるのだろうか。非物質的な認知・文化財は、研究開発には多大なコストがかかるが、低コストで大量に生産し流通させることができるため、利益を得やすい。しかし、消費者の注目を集めない場合、無に帰してしまう。それも、消費者の興味関心は不透明で、一度注目を集めた商品はその後も注目を集めやすい。したがって、そこには勝者総取り市場が生まれ、偶然が大きな要素を占めるにもかかわらず、勝者と敗者の差が拡大する。こうして、あらゆる面で格差をもたらす極端な資本主義が成立してしまうのだ。ポスト工業経済に至った必然性を認識しつつ、その課題を正視しなければならない。
第四章「疲弊した自己実現―― 後期近代の個人とその感情文化のパラドックス」で取り上げられるのは、後期近代におけるラディカルに感情化された自己実現の文化に潜む危険性である。自己規律や社会的順応、(感情ではなく)即物性に重きを置いた工業的近代とは異なり、後期近代の主体は、個性的で真正な生を求め、生活のありとあらゆる要素を独自化し、ポジティブ感情を生み出しながら、自己実現を追求する。そしてそれは単なるロマン主義的理想にとどまらない。むしろ、自己実現を推進するための基盤を提供してくれる社会的ステータスや、それと関連して、自らの独自な生活を認識してくれる他者を前提として、社会的承認を獲得することもまた必要不可欠であり、市民的な理念も共存しているのだ。とはいえ、こうした生活態度は、ネガティブ感情と表裏一体であり、常に挫折の危険性と隣り合わせである。レクヴィッツは、失望を生産する六つのメカニズムを挙げている。ロマン主義/ステータス・パラドックス、社会的なものの経済化(およびそれを通じた競争構造の激化)、デジタル化に代表される比較技術の発展、主観的体験の評価基準の偶然性と脆弱さ、放棄や諦念を嫌い自己の発展的拡張だけを是とする文化的理想、ネガティブで意のままにならない物事と向き合うための文化的資源の欠如である。レクヴィッツによれば、こうしたメカニズムから脱却する道は二つ存在する。問題を即座に解消できるものとしてではなく、反省的に距離を取りながら意識化し、矛盾や両義性に耐え抜く力を培うこと、そして感情に依拠しすぎない主体の形成に取り組むことが大切になってくるのだ。
第五章「自由主義の危機と新たな政治的パラダイムの模索―― 開放型自由主義から埋め込み型自由主義へ」では、アメリカ大統領選挙やブレグジット、イエローベスト運動など、とりわけ二〇一〇年以降に世界各地で生じている政治的危機の構造を理解するために、従来の左・右という図式を捨て、政治的パラダイムという概念を導入する必要性が説かれている。この政治的パラダイムとは、トーマス・クーンの概念を第二次世界大戦後の政治的展開の分析に応用したもので、あらゆる政治的立場を包含し、問題設定と問題解決の方向性を決定する枠組みであり、左・右という区分は、その内部のバージョンを表現しているに過ぎない。そして、この政治的パラダイムは時代とともに変化する。ある時点で社会問題を解決する能力を有していたとしても、その方向性を取り続けることで(取り続けるが故に)、また別種の問題が発生し、今度はそれに対応することができず、パラダイム転換が訪れるのだ。このように考えると、一九四五年以後の西洋の歴史は、規制化パラダイム(社会コーポラティズム)と動態化パラダイム(開放型自由主義)に区分できる。第二次世界大戦後に支配的だったのは前者で、ケインズ主義的福祉国家体制のもと、平準化された中間層社会のなかで標準や平均が奨励されると、経済面でも文化面でも社会秩序の構築が推進された。しかし、一九七〇年代に入ると、生産性と飽和の危機から生じる経済停滞、および平等の実現を超えて画一性と順応性を強いるシステムへの強い懐疑が生まれ、過剰な規制化の危機が訪れる。そうして、動態化パラダイムたる開放型自由主義への転換が生じる。一九七〇年代以降はこの開放型自由主義という同一の枠組みの内部で、グローバル化やイノベーション、民営化による生産性の向上を謳う新自由主義と、個人の権利や文化的多様性を追求する左派自由主義が、それぞれ経済的問題と文化的問題に取り組むことになるのだ。だが、二〇一〇年ごろからとりわけ顕著に見て取れるように、こちらも、規制を失った市場、社会インフラの軽視、格差の拡大、文化的分断、自由民主主義体制の機能不全といった過剰な動態化の危機に直面している。レクヴィッツは、こうした現代の課題に対応する未来のパラダイムとして、規制化を通じた社会の秩序形成を志向する「埋め込み型自由主義」を提唱する。ただし、旧来の社会コーポラティズムに回顧的に後退するのではない。現実の社会発展に向き合い、文化と経済の双方における開放型自由主義の成果を継承し、自由民主主義と多元主義を堅持しながら、アイデンティティや市場、グローバル化の推進力を新しく作りあげられるべき枠組みに「埋め込まねば」ならないのだ。
もちろん、『独自性の社会』から『幻想の終わりに』で展開されるレクヴィッツの社会理論には、称賛だけでなく、厳しい批判も寄せられている。なかでも、ブレーメン大学の社会学者ウーヴェ・シマンクと共同研究者ニルス・クムカーは、社会科学の専門誌『リヴァイアサン』二〇二一年一月号で、ドイツの中間層を対象に実施した彼ら自身のインタビュー研究「投資的なステータス活動としての生活態度」に依拠しつつ、実証社会学の見地からレクヴィッツの議論の生命線たる「三つの階級の社会」という時代診断に疑義を呈している。紙幅の都合もあるため、要点だけ確認しておこう。まず、大学卒業者の数や収入面から見て、「新たな中産階級」と「古くからの中産階級」という区分はそれほど明確ではない。また、縦軸に社会状況を横軸に価値志向を据え、当該の人々の思考形式や社会環境を意味するミリューの分布をグラフ化したSINUS研究を参照するにあたっても、例えば古くからの中産階級に属するとされる「保守・支配層ミリュー」の人々が、新たな中産階級の特徴とされる「リベラル・知識人ミリュー」よりも、同じ古くからの中産階級に分類される「適応型・プラグマティックミリュー」の方により親近感を覚えるのかどうかなど、実証的データの存在しない不明点が多く、レクヴィッツは「階級」という確固たる区分を持ち込むことで、中間層内部の多様な分化を単純化しすぎている。最後に、(新たな)中産階級における「ステータス活動」から「成功に満ちた自己実現」への生活態度の変化という点に関しても、前者は一九七〇年代以後の社会で依然として重要であり続けているほか、後者についても以前からずっと営まれてきたものである。レクヴィッツの想定する以上にこれら二つの生活態度は継続的に存在しており、後期近代において初めて誕生したものではない。したがって、新たな中産階級と古くからの中産階級を確固たる対立軸として捉えうるのかどうか再考すべきである。およそ、シマンクとクムカーの批判はこのようにまとめることができるだろう。
『リヴァイアサン』の同号には、両者に対するレクヴィッツの反論も掲載されている。彼によれば、(後期)近代社会全体を把握する理論モデルを構築するにあたっては、多様な個別の実証的データを基礎にすると同時に、それを選択的に先鋭化させながら総合せねばならない。つまりそれは、「抽象化」と「具体化」、「普遍的な言明」と「経験的多様性」との厄介なバランスの上に初めて成立するのである――理論モデルの検証に向けて、今度は実証研究に新たな刺激を与えもするだろう。かかる自らの立場を前提とした上で、レクヴィッツは、自身に向けられた「誤解」を紐解こうとする。まず重要なのは、社会集団の分析に際しては、先の「抽象化」と「具体化」の関係性が常についてまわる、という点である。個別のミリュー、階級、各階級の共通点、そのどれに照準を合わせて集団を特定するかにより抽象度は変化するが、レクヴィッツの議論は――もちろん境界事例や例外を考慮せねばならないものの――基本的に階級のレベルを対象にしたものである。しかも、従来とは異なる新しい中産階級が誕生しているという洞察そのものは、レクヴィッツの新奇な発見ではなく、欧米の研究ですでに何度も言及されており、その階級が、一九世紀のブルジョアがそうであったように、「数」としては少なくとも社会で多大な影響力を発揮していることは疑いえない。続いてSINUS研究に関しては、グラフの縦軸に示される社会状況が、教育など文化資本によるものなのか、経済資本によるものなのか不分明で、確かにさらなる検証が必要ではある。しかしながら、グラフ内の各ミリューの分布を基にすれば、新たな中産階級や古くからの中産階級の存在は十分に同定可能となる。そしてSINUS研究は、同じ階級内に属する人々の思考様式が同一ではなく、まさしくそこにさまざまな相違が存在しているという点も示してくれている。レクヴィッツによると、例えば新たな中産階級に属する「社会エコロジーミリュー」と「パフォーマーミリュー」は、それぞれ左派・環境主義と新自由主義という相対立する価値観を示していると解釈できるのだ。また、シマンクとクムカーは、レクヴィッツのテーゼを、従来の伝統的中産階級が新たな中産階級に生まれ変わったと解釈しているが、それは誤読であるとされる。あくまでレクヴィッツの主張は、伝統的中産階級(古くからの中産階級)とは別に、新たな中産階級が誕生したというものだ。もちろん、どちらも中産階級であるため「ステータス活動」が依然として中心的要素であるが、後者はそれが「成功に満ちた自己実現」と融合しているという点で「新しい」のである。この論考の最後でレクヴィッツは、「リベラル志向」や「開放性」を有した社会変革の担い手として新たな中産階級を称揚する態度も、後期近代社会の問題の諸悪の根源としてスケープゴート化する態度も、どちらも拒絶しつつ、後期近代社会におけるその重要性を冷静に受け止め、さらなる理論的・実証的研究の進展の意義を説き、全体の結語としている。
こうしたシマンクとクムカーへの応答は、単なる再反論の枠を超えて、社会理論に対するレクヴィッツ自身の問題意識そのものと密接に結びついている。それに関連して、『独自性の社会』の序章に書かれた文章も引用しておこう。
レクヴィッツは、個別の実証研究に依拠しつつも、それにとどまらず、近代社会全体の包括的な理論構築を目指す。その一方で、ユルゲン・ハーバーマスやアクセル・ホネットなど、フランクフルト学派に代表される批判理論ないしは規範理論を念頭に置きながら、こうあるべきという「規範」に依拠した社会批判からは距離を取ろうとする。「独自性」に関しても、「新たな中産階級」に関しても、差し当たりそれらは、分析を通じて判明した(後期)近代社会の構造を示すメルクマール以上でもそれ以下でもなく、何かある「規範」に照らして批判されるべき対象でもなければ、「規範」そのものでもない。あくまで目標は、実証研究とのバランスを絶えず取りながら、現在の社会構造やその生成過程の必然性を冷静に分析し、社会を生きる当事者にその見取り図を提供することにあるのだ。
社会分析を通じて、確固たる現実が自明のものではなくなり、その基盤や歴史的過程に対する反省が生まれると、視線の変化がもたらされ、事態の改善への一歩が踏み出される。まさしくこの意味において、レクヴィッツは、(後期)近代の「批判的分析学」を企図しているのである。
さて、この解説の締め括りにあたって、少々我田引水ではあるけれども、ワイマール共和国時代に活躍した作家ハンス・ファラダの長編小説『ピネベルク、明日はどうする⁉』(1932)から、印象深い一場面を引用しておきたい。ナチス政権獲得前夜、不景気と政情不安定に陥るベルリンが主たる舞台であり、主人公であるしがないサラリーマンのヨハネス・ピネベルクと配偶者エマ(「子羊ちゃん」と呼ばれる)は、幼子を抱えながら、大都会でぎりぎりの生活を送っていたが、ヨハネスは大量失業の波に吞まれてしまう。彼は保険会社から授乳手当てを受給しようとするが、一向に申請手続きは進まず、窓口でもぞんざいに扱われたため、監督当局に抗議文書を送付するが、こちらも横柄な対応である。その際、この酷い仕打ちへ再抗議を行うかどうかを巡って、二人の間にこんな会話が交わされる。
政治状況や経済状況に対する個人の無力さを身にしみて痛感しているエマは、その一方で、自分たちの苦しみを、同じように苦境に立たされた人々に向けて発散する無意味さも十二分に承知している。「私たちが踏み付けにできるような相手は、私たちが一番そうしたくない人たちよ」、この彼女の一言には――「パラダイム」の相違、つまり歴史的差異には十分に注意を払わねばならないものの――同じく政治・経済・文化の面で危機に面している現代の私たちに対して、痛切に訴えかけてくる何かがある。今日においても、不景気や格差、政情不安定、差別、分断は目に見えて明らかであり、種類は異なれど、多くの人々が日常の暮らしの中で、決してやり過ごすことのできない問題を抱えている。だが、自らの苦悩の解消先が、(どのような政治的志向であろうとも)類似した境遇に置かれた人々や一層無力な「他者」となってしまえば、犠牲者が犠牲者を生む負のスパイラルが生まれ、事態はますます深刻になるばかりである。
してみれば、私たちには状況を俯瞰するような視点も必要になってくるのではないだろうか。まずもって、個別の問題それ自体を一つずつ解決していくことが重要であるのは間違いない。しかし、その際視界が狭まると、近視眼的に「悪者」を設定してしまう恐れがあるし、仮に解決に至ったとしても、それらは常に社会全体との関連で生じてくるため、同種の問題が再生産されてしまい、真の改善には結びつかない可能性がある。つまり私たちは、個がわからなければ全体はわからないし、全体がわからなければ個はわからないという、いわゆる解釈学的循環のなかで、常に試行錯誤を続けなければならないのだ。
このように見た時、ミクロなレベルをマクロなレベルへとフィードバックしながら、進歩という「幻想の終わり」を迎えた現代の相貌を浮き上がらせるレクヴィッツの試みは、社会における解釈学的循環の中で絶えず思考し続けるための一つの方途を、私たちに示してくれていると言えるだろう。
※ 続きは本書でご覧ください ※
「公的な議論は、確固たる楽観的な進歩主義からディストピアやノスタルジーへと、すなわち、ある選択的な見方から別の見方へと転換した。だからといって、現代社会の構造を理解し、それに対処することが以前より簡単になったわけではない。とはいえ、幻想の終わりが画一的な悲観主義に行き着く必要はない。幻想がないということは、冷静なリアリズムを可能にし、分析のための空間を開くような美徳でありえるのだ」(本書より)
アンドレアス・レクヴィッツ
Andreas Reckwitz/1970年、ドイツ・ヴィッテン生まれ。社会学者、文化理論家。フンボルト大学ベルリン社会科学研究所教授。主著にDie Erfindung der Kreativität. Zum Prozess gesellschaftlicher Ästhetisierung (Suhrkamp, Berlin 2012)、Die Gesellschaft der Singularitäten. Zum Strukturwandel der Moderne (Suhrkamp, Berlin 2017)など。近年の主な受賞歴として、DFG(ドイツ研究振興協会)のゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞(2019年)、ハイデルベルク科学アカデミーによる表彰(2021年)など。
橋本紘樹(はしもと・ひろき)
1992年、滋賀県生まれ。専門は、47年グループやフランクフルト学派を中心とする現代ドイツ文学・思想。九州大学大学院言語文化研究院助教。松山大学経済学部特任講師を経て、2023年度より現職。訳書に『新たな極右主義の諸側面』(堀之内出版、2020年)、『アーレント=ショーレム往復書簡集』(岩波書店、2019年、共訳)など。主要論文に「アドルノにおけるハイネ講演、あるいは文化批判と社会」日本独文学会機関誌『ドイツ文学』第156号(第59回ドイツ語学文学振興会奨励賞受賞)。
林 英哉(はやし・ひでや)
1989年、北海道生まれ。専門はヘルダーリンをはじめとする近現代ドイツ文学。三重大学人文学部特任准教授。京都大学非常勤講師などを経て、2022年度より現職。主著に„Lang ist die Zeit, es ereignet sich aber das Wahre“. Hölderlins Poetik des ‚Ereignisses‘ (readbox unipress in der readbox publishing, Dortmund 2021)、„War sie nicht mein […]?“ Die Rhetorik der Melancholie in Hölderlins „Hyperion“, In: Neue Beiträge zur Germanistik 149(第55回ドイツ語学文学振興会奨励賞受賞)。
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