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【篠原雅武・特別寄稿】ティモシー・モートンの「ハイパーオブジェクト」に関する覚書

 私のメンターであり友人でもあるネイハム・チャンドラーは、来年に刊行される著書(アフリカンアメリカンの思想家であるデュボイスについての著書)の序文で、次のようなことを書いている[注1]。考える人としての思想家が取り組むべき問題とは、その時代と状況の諸条件によってその人に課される一連の問いである、と。

 つまり、私もまた今の時代のなか、何らかの特有の状況の中で生きている。ここで私が考え、社会的に存在することに伴い、なんらかの生活の秩序(order of life)が形成され、のみならず、この生活の秩序そのものが思考されるべきものになっていくのだが、この状況の中での思考と実生活の関係のなかで考え続けることが、考える人にとっての課題である。

 チャンドラー氏との出会いは、コロナを経ても続いていて、その過程で一つ英語の論文を書くことになった[注2]。

 英語で書くということは、自分の思考を母国語の外に向けて広げることで、そうなると、自分が生きている時代や状況の諸条件の捉え方も変わってくるし、そこで可能な生活の秩序に関しても、それを別に日本国内に限定する必要もないということが見えてくる。おもえば、私がここ数年取り組んできた「エコロジカルな危機における人間の条件への問い」というのも、現在生きている人であればつねに考えざるをえない問題で、それをたまたま日本語で続けてきたのだが、そこで考えようとしていることを英語化すると、日本語の外で思考し、実践している人たちの思想的・文化的状況のなかに自分の思考もダイレクトにつながっていく感じが出てくる。

 それはじつをいうと、自分が書いていることが本当に自分の思考から出てきているのかということを問い詰めていく作業でもあって、そうなると、自分が置かれた時代と状況をどこまでしっかり考えることができているのか、それを自分なりの思考で言語化できているのかという内省と自己批判、それも、母国語の外とのかかわりのなかでの自己の思考の検討が不可欠になってくる。多和田葉子の『エクソフォニー』を読んだとき、最近の自分の気分が何なのか、よりはっきりした。「エクソフォニー」は「母語の外に出た状態一般」のことである。彼女もドイツ語という母国語以外の言語で書きつつ日本語でも書いているのだが、彼女が言うには、それをすることで、日本語でもなければドイツ語でもない領域に出ていくことができるらしい。そこで問われるのは、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか? 出たらどうなるのか?」という問いである[注3]。

 内省と自己批判は、自分が親しんできた著作の著者が述べていることを論じるとき、とくに不可欠になる。とりわけ、近年は、『複数性のエコロジー』(以文社、2016年)で論じたティモシー・モートンの思考との関係をどうするかということに、意識的にならざるをえなくなっている。最近も、川内倫子の写真集Illuminanceの10周年版のために、英語で文章を書いたのだが、そこでも川内の写真を論じるためのものとしてモートンの思考に言及した[注4]。ただし、そこで私は、モートンの思考を、川内の写真を解釈し説明するためのものというのではなく、言葉で発された思考の産物ととらえ、川内の写真作品と関係づけ、そこに一種の共鳴関係を見出していくというスタイルで論じた。関係づけ、共鳴関係を見出すには、それを書く私の思考と感覚がどのようなものかに意識的にならざるをえない。

 思えば、モートンの著作との出会いは2012年で、それ以来、気づいたら10年近くの年が過ぎ、2016年にはヒューストンのライス大学を訪問してインタヴューを行い、2020年にはライス大学で開講されたモートンのオンラインオープンクラスを2ヶ月近く受講した。授業は、5月下旬から6月下旬にかけて、週3コマ、6週間、ヒューストン時間朝8時から2時間(日本時間では夜10時から2時間)行われた。私はそれに参加した。参加者は30人程度だった。講義はちょうどコロナウイルスが蔓延し世界中がロックダウンされていくなか行われた。講義に参加した人たちはそこで起こりつつある世界の変化が何であるかをモートンとともに考えていたはずである。

 このように、私はかなりモートンの思考に親しんでいるのだが、自分が英語で書くとなると、逆にその影響圏の外へとどれほど出ていけるかが問われるようになる。英語の世界では、モートンに言及しながら自分の思考を展開している人はたくさんいる。それはただ人文科学系の著者に限定されない。かなり多くのアーティストがモートンを読み、みずから実践していて、そこで緩やかに形成されつつあるモートン的世界というのがあって、そのなかで自分も書くとなると、自分がモートンをどう読んだかが問われ、自分が何を考えているか、どう感じているかが問われることになる。

 じつをいうと、モートン自身も、かつて自分が書いた著作において形成された思考の空間を崩し、その外に出ていくことを繰り返しているようでもある。実際、最近の著書『ハイポサブジェクト』でも、「『ハイパーオブジェクト』は今やある意味今日的な意義をもたないものになった」と書かれている。「皆が、ハイパーオブジェクトが何であるかを、直感的に感じている。コロナウイルスがいたるところにある」と書かれている[注5]。人間には掴みどころのない物質とも生命体とも言い難いなにものかが大量に撒き散らされている状況をさしてモートンはハイパーオブジェクトと言ったのだが、今ではそんなことは当たり前のことで、論じるまでもない、ということなのだろう。

 それでも、コロナウイルスにかぎらず、温暖化や豪雨の頻発、洪水など、人間的な尺度を超えたところで起こりつつある惑星規模の変動は現実に起きているように感じられるのは確かで、そこでどう考えたらいいのか、どうしたらいいのか、どのような生活の秩序を作り出すかということは、依然として問われている。そのかぎりでは、モートンが『ハイパーオブジェクト』で展開した議論は、いまだに読まれるべきで、そこから何らかのアイデアを汲み取り、自分なりの思考へと展開することの可能なものとして存在している。

 モートンは、グローバルな温暖化に特有の困難に関して、次のように述べている。それはたとえば、走るトラックの前に飛び出してしまった子供を目にしたときのようなものである、と[注6]。少し長くなるが、その概要を紹介したい。

 モートンが言うには、そこには三つのパターンがありうる。

(1)トラックが減速することなどありえない。助けるべきだが、できるかどうか、あなたにはわからない。それでもその瞬間そのものによって助けるよりほかなくなる。道路に出て、子供をとらえ、道から引っ張り出すのだが、トラックは助けたあなたにぶつかってくるが、それでもなかばよろめきつつ、道から飛び出す。子供は助かった。
(2)二週間後、同じ子供が走るトラックの前に飛び出してきたのを私が目にする。助けるべきだと考えるが、それでもそうすべきかどうか確信できず、躊躇する。ちょっとした道徳的計算をする。倫理的な行為は功利性にもとづくし、存在することそのものはいいことであって、だから私は少年を助けるべきだと考える。あるいは少年は私の関係者かもしれない。いとこであるか、もしくは私のかかりつけ医の姪っ子の同級生かもしれない。いずれにせよ、私は少年を助けることを決意する。だがもう遅すぎて、少年は死んでしまう。
(3)さらに二週間後、まったく同じ場所で、今度は別の少女がトラックの前に飛び出している。私の知らない人が道を下ってくる。彼女は少女を助けるべきと考えるが、本当にそうかどうかわからない。ちょっとした一連の計算をおこなう。トラックはあまりにも速く走っているので、減速などできないのではないか。あるいは減速できるかもしれないが、勢いがありすぎて、だからたとえ減速したとしても、少女を轢いてしまうのではないか。道路の表面の摩擦のおかげでトラックの慣性が弱まり、停止させることになっても、それでも自動車は少女に向かってスライドし続けるかもしれず、それは運転手が急ブレーキをかけたとしてもそうで、要は全部が同じことになるのではないか。私の知らない人は、トラックは必ずや少女にぶつかると結論するが、実際、その人は正しい。トラックは少女にぶつかって、その子を殺すことになる。

 当然のことながら、モートンは最初の選択肢を支持する。それは、「さしたる理由がなくても、ただとにかく子供を助ける」ということでしかないのかもしれず、実際、それに対してありうる反論として、非理性的な「ただやってみよう」という姿勢であるとか反知性主義だとかいうレッテルもありうるのだが、それでもモートンは、これはきわめて知的なことだと述べ、そのうえでまさにモートンが言いそうなことを言う。「あなたはただ少年を助けた。だが、そうすることであなたは、不気味さ(uncanniness)というとんでもない感覚を経験することになる。トーキング・ヘッズの「Once in a Lifetime」の替え歌が私の心に生じてくる。「こんなの自分の美しい子供じゃない」「こんなの自分の美しい通りじゃない」「こんなの自分の美しい行為じゃない」。

 ここでひとつ手がかりになるのはモートンが不気味さに言及していることで、もちろんフロイトの言葉でもあるが、重要なのは、車に引かれそうになっている子供を前にしてあまり面倒なことなど考えるのよりも一種のfeelingが働いてそれで気づいたら子供を助けることになっていたということに不気味さを感じてしまう、ということである。ただ、それはそんなに難しい言葉で言われる話でもなく、それこそトーキング・ヘッズの歌で描かれるような、生きるというのは地下を流れる水流に飲み込まれていくことであって、そこで流され上にいったり沈んだりして、いつも同じであるようでもあり気づいたら別のところにいたり自分が期待していたのとは全然違うことになっていたりそもそも自分がどうして今ここにいてこの人と一緒に暮らしているかもよくわからないというoceanicな状況なのだということを言わんとしているようでもある。

 実際、ここでトーキング・ヘッズが喚起する深海のイメージは、2017年の著作『人類Humankind』(岩波書店より、拙訳が刊行される。2022年の夏までには出るはず)で明確になる。「私はすでに宇宙の内にいる。私は人魚のようなもので、いつも引っ張られては引っ張り、押されては押し、はじかれてははじき、ひっくり返されて開かれ、流れとともに動き、私に結集することのできる力で流れを押しのける。環境はニュートラルで空虚な箱ではなく、流れとうねりで満たされた海である」[注7]。モートンは、海洋性のイメージでエコロジーを語ろうとする。それは、土や大地、土壌といった定まった領域とは異なるところにエコロジカルなものを見出すことを意味している。その表面は、風が吹き荒ぶところでもあり、波が立つところだが、その深層は、静寂と密やかな動きの領域であり、何が起こるかわからない偶然性の領域でもある。

 私のところに、『計算する生命』(森田真生著、新潮社、2021年)なる著書が、版元の出版社を介して送られてきたのも、そのような流れとうねりのなかで出会った一つの出来事と捉えることもできるかもしれない。というのも、そこでもティモシー・モートンの『ハイパーオブジェクト』について、論じられているからだ。ただし、参考文献をみた限りでは、私がモートンを論じたいくつかの著作、つまりは『複数性のエコロジー』や『人新世の哲学』(人文書院、2018年)『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020年)が表記されておらず、また、『ハイパーオブジェクト』の起点ともいえる『自然なきエコロジー』(篠原雅武訳、以文社、2018年)も表記されていないので、著者の森田氏がはたしていかにしてモートンの存在を知ったのかその著作を読む限りではわからない。

 そもそも、なぜ私のところにこの本が届いたのかも、この本を読むだけではわからない。私と何の関係があるのか、この本を読んでいるだけではわからない。ただとにかく、モートンを論じた箇所があって、それで私のところに送られてきたということは、私がモートンを論じているということを著者本人も承知のうえであると推測することはできる。それでも、本書を読む限りでは、私の著書を参照した形跡を見つけ出すことはできない。なぜか。考えられることとしては、(1)森田氏は、私の著書のことを知らない状態でモートンの著作と出会い、『計算する生命』を書いたのだが、校了後、発売が近くなった段階で、たまたま私のことを知り、モートンを論じているらしいからとりあえず送っておこうと考えたということなのかもしれないし、あるいは、(2)私の著書のことを知っていて、いくつか目を通したが、参照するのに値しないほどのものだったので、参照しなかった、ということなのかもしれない。あるいは、(3)私の著書を知っていて、いくつか目を通したが、何か事情があって、著書内で私の名前に言及するのを差し控えた、ということもありうる。ただ、そのあたりは、直接本人に聞いてみないとわからないのでこれ以上のことは書かない。

 それはともかくとして、森田氏は、モートンを論じている。その203頁からの論述では、モートンの「ハイパーオブジェクト」が論じられている。森田氏は、それを「気候やウイルス、あるいは地球規模の生態系など、人間のサイズを圧倒的に凌駕した広がりをもつ対象」に関わる概念と捉えたうえで、次のように論じている。

 ハイパーオブジェクトとは、単に「大きなオブジェクト」ではない。地球温暖化は私たちの皮膚を焼き、地球規模に広がるウイルスは粘膜に付着してくる。ハイパーオブジェクトは、不気味なほどじかに、私たちに張りついてくるのだ。

 たしかに、ハイパー・オブジェクトは、大きなもののことを言うのではない。「ハイパー」は、尺度を超えていることを意味しているのだが、人間の手の届かないところで大規模に撒き散らされ拡散していく状況にある事物のことを意味している。モートンは、不気味さの感覚を、この状況に特有の感覚の一つとして捉えている。

 これに関して私は、昨年出版された論集『環世界の人文学』所収の論考「「人間以後」のエコロジー哲学」でも論じたので、その該当箇所を引用しておく。

 『自然なきエコロジー』の後に書かれた著書である『エコロジカルな思考』の最後、「始まりの終わり:ハイパーオブジェクトの未来」では、次のように書かれている。

そのへんにある発泡スチロールから恐るべきプロトニウムにいたる物質は、現在の社会的・生物学的形態よりもはるかに長く存続するだろう。私たちは、何百年、何千年ものことについて語っている。今から五百年後、コップやテイクアウトのためのボックスのようなスチロール製品はいまだに存在するだろう。一万年前には、ストーンヘンジは存在しなかった。今から一万年後には、プロトニウムはいまだに存在するだろう(Timothy Morton, The Ecological Thought, Harvard University Press, 2010, 130.)。

 ここで重要なのは、スチロール製のコップやプルトニウム、プラスチックのような事物そのものではない。人間が日常的にもちいている時間的尺度をはるかに超えた規模でこれらが存続しうるということであり、さらに、空間的に大規模に撒き散らされていることである。それをモートンは、「ものとは何かについての考えを超えてしまうほどにまで大規模に時空においてばらまかれている」と言い表す。つまり、人間的尺度を離れたところで事物が拡がり、存在し続けるということの途方もなさをさして、モートンはハイパーオブジェクトという[注8]。

 すなわち、ハイパーオブジェクトが意味するのは、事物が膨大に撒き散らされていることそのものより、事物が膨大に撒き散らされる領域があるということで、この領域が、人間から遠ざかりつつも人間をその一部分として含みこむものとして存在するようになっている、ということである。

 そのかぎりでは、ハイパーオブジェクト的な状況にある事物が人間の身体に直接付着し皮膚を焼くなどして影響を及ぼしてくるとはかぎらない。森田氏は、先の引用箇所に続けて、「全貌が見わたせないほど巨大で、にもかかわらず身体に粘着してくるこうしたものたちが、人間中心主義を機能不全に追い込んでいるとモートンは説く」と書いているが、この見解も妥当とはいえない。モートンは、ウイルスや暑さを素朴で直接的な経験の水準で捉えていない。むしろ、プラスチックや二酸化炭素など、人間活動の産物として存在しているのにもかかわらず、その影響は、人間の素朴な経験領域の範囲を超えたところで進展してしまっていて、だから人間の日常の範囲内にとどまるかぎり気づかれることのない状況にかかわる水準で捉えている。

 この手の届かなさに関しても、私は先の論考で論じたので、それも引用しておきたい。

 人間はそれを、自らの手でつくりだした。人工的という意味では、人間的尺度に従うはずが、人間の尺度を離れたところに拡がり、展開してしまう世界。そのなかに、人間もまた生きてしまっているだけでなく、人間以外のもの、それも、人間と無関係に存在する他なるものにとりまかれてしまっている。

 モートンは、ここに生じる不気味さの感覚を重視する。そして、この感覚を的確に捉えた作品として、マリーナ・ズルコウの「メゾコスムス」を紹介する。作品では、湖とそれをとりかこむなだらかな山の拡がりが描かれている。その虚空を、無数の蝶が飛び交う下で、防護服らしいものの身をつつむ人たちがかがんで作業する様子が描かれるのだが、それはチェルノブイリやフクシマで起こった事故後の世界を連想させる。この作品についてモートンは、次のように述べる。

それはあたかも自然および自然のアートと考えられている事物がそこに存在しつつ、ないものと考えられている事物(空虚、防護服、奇妙に重なり合っている諸々の速度)もそこで共存し、静かに、優しく、だが本当に容赦なく自然を侵食していく(Timothy Morton, Hyperobjects: Philosophy and Ecology after the End of the World, University of Minnesota Press, 193)。

 ここで侵食されるのは、安定的なものとして人間を支えてくれると考えられてきた自然である。かつては、人間世界が建造されていくことの背景として、変わらざるものとして考えられてきた。「メゾコスムス」ではこの自然が、おそらくは何らかの大惨事により開かれてしまった空虚と、そこを飛び交う蝶と、防護服姿の人びとのうごめきで満たされていく地面により圧倒され、存在感が弱まっていく。当然のことながら、安定的な土台としての自然に対する侵食とその不安定化の影響は、そこを土台として生きる人間存在にも及ぶ。人間的尺度から解放されて存在しはじめたハイパーオブジェクトの只中で、人間もまた侵食され、その明瞭な輪郭は薄れ、半透明になり、存在感が希薄化していく[注9]。

 つまりモートンは、「ハイパーオブジェクト」を、人間もまた生きているところとしての世界に関わる概念として用いている。それは、温暖化をはじめとする世界の変化の途方もなさなのだが、そのなかで人間は、どうなってしまうのか。森田氏は、「人間を自然界の頂点という「高み」から引きずり下ろし、人間でないすべてのものと同じ地平へと、「低く」降り立っていくことを余儀なくさせる」(206頁)というのだが、そうなると、問われるのは、人間が謙虚になれるかどうかというモラルの問題ということになるのだろう。だが、繰り返しになるが、モートンの思考において重要なのは、人間を低い地面に降り立たせることではなく、人間的な世界の外に広がる途方もなさに敏感になり、そこに向けて開かれていくことである。

 モートンの議論をモラルの議論にしてしまうことで見えなくなってしまうものがある。それは、森田氏の著書の214頁から216頁にかけて展開される論述において明瞭である。そこでは、次のように言われる。

モートンは、著書『ハイパーオブジェクト』のなかで、地球環境の危機に直面しながらこれに応答することができないままでいる私たちの姿を、少女が道路に飛び出そうとしているのを助けようとしない「無責任」な人間になぞらえている(214頁)。

 そのうえで森田氏は、私が先ほど紹介した箇所(子供を目の前にしたときにありうる三つの行為のあり方)のうち、第三の行為のバージョンを引用するのだが、この引用の仕方は、いくつかの点で的確でない。まずモートンは、三つの行為のうちの一つとして、第三の行為のあり方を提示する。つまり、いろいろと考えてしまって結局何もできないでいる人の行為が何であるかは、第一の、まさに子供がトラックに轢かれるという状況そのものの瞬間において「自分でもよくわからないうちに」してしまった行為との対比においてこそ明らかになる。それだけを紹介して、その行為の「無責任さ」を批判するというのとは、わけが違う。そもそも、モートンの議論は、無責任な人間の悪を指弾することで私たちに罪悪感を抱かせるといった類のものではない。

 ゆえに、森田氏が先の第三の行為を論じた箇所の引用に続けて次のように言うとき、その見解も的外れなものとならざるをえない。森田氏は、色々と考えあぐねた結果動かないでいる状況に関して、「十分な理由を見つけるまで動かないことはこの場合、それ自体が倫理に背く行いになる」というのだが、この見解は誤りである。モートンは、動くことにおいては「理由がない」と述べている。理由があるから動くのではない。そうであるとしたら、理由を探し求めることが重要ということになろうが、モートンは、その行為が、ある種の不気味さにつきまとわれるようにして起こると考えている。ゆえに、行為が起こらないことが問題なのは、それが倫理に背くからではない。むしろ、その人が不気味なものとの接点で生きていないことの問題で、つまり、モートンのいう海洋的な領域、美的な領域、何かが起きてしまう領域、action at a distanceの領域から離れてしまっていることの問題である。

 子供がトラックの前に飛び出してしまうという危機的な状況である。そのようなこともまた起こってしまう世界のなかに私たちは生きている。この状況が、ハイパーオブジェクトと直面するとき私たちが身を置く状況そのものだとモートンはいう。

 モートンへの関心は世界中で高まっていて、それに応じるかのようにして、モートンは、2020年以降もオンラインでの講演を精力的にこなしている。日本国内ではまだあまり知られていないようだが、それでも私がよく知るアーティストや劇作家など、一部の人たちはその重要性に反応しているし、それを媒介とすることで、日本国外の文化や思想の状況により深くコミットしていくことを試みる実践者はいる。

 たとえば、チェルフィッチュの岡田利規氏が、その一人である。2019年の夏、私はチェルフィッチュの新作「消しゴム山」の稽古を見に東京に行ったのだが、それとの関連で、岡田氏との対談を行った。それはWiredウェブ版に掲載されたが、そこで岡田氏は、「人間のスケールを脱する」ということをテーマとする演劇を構想していると話し、それを進めていくためのヒントとして、ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』と、拙著『複数性のエコロジー』を読んでいるとも話してくれた。そして2019年10月、「消しゴム山」の公演が京都市のロームシアターで行われたのだが、それを実際に観た私は、そこで考えたことを踏まえ、当時執筆していた著作『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2021年)のある箇所を書き、他の箇所をブラッシュアップした。

 その後も、金沢21世紀美術館で行われた展示『消しゴム森』での鼎談(金氏鉄平をも交えた鼎談)に参加させてもらったり、さらには『群像』2021年3月号での「消しゴム式 チェルフィッチュ群像公演」と題する小特集で、彼の小説(「消しゴム式」)を批評し文章にするというチャンスをいただくことになる。岡田氏が言うには、「消しゴム山」に始まるプロジェクトは今後も続くそうで、となると、ここに開かれた問題の場に組み込まれている私もそこで一緒に考えていかねばならないということになる。こうなっていることのきっかけの一つが、モートンの著作を読み込んで日本語の環境に導入するという私のひそかな試みだったと思うと、不思議な気持ちになる。

 岡田氏以外にも、表面化しないところで私とやりとりしている人もいて、ありがたいことに、その人たちも私の著書からさまざまにヒントを得てくれていて、作品制作や実践に活かしてくれている。その場合には、殊更に私との交流を作品との関連で表立って説明しないほうが私としては気が楽で、それはつまり、SNSやらなんやらをつうじて私との関係をアピールするというのとは別の水準での信頼関係があるからそう思えているということでもある。そこで問われるのもやはり、互いの実践や作品への敬意という、とてもシンプルなことではないかと思う。


注1 Nahum Chandler, "Beyond This Narrow Now" Or, Delimitations, of W. E. B. Du Bois, New York: Duke University Press, 2022, 6-7.
注2 Masatake Shinohara, “Rethinking the Human Condition in the Ecological Collapse,” CR: The New Centennial Review, Volume 20, Number 2, Fall 2020, pp. 177-203.
注3 多和田葉子『エクソフォニー』岩波現代文庫、2012年、7頁。
注4 Masatake Shinohara, “The Luminous Openness of Rinko Kawauchi’s Photographs” in Illuminane, New York: Aperture, 2021.(川内倫子『Illuminance』Torch Press, 2021年)。英語版の抜粋はApertureのウェブサイトで読むことができる。https://aperture.org/editorial/the-luminous-openness-of-rinko-kawauchi-photographs/
注5 Timothy Morton and Dominic Boyer, Hyposubjects: On Becoming Human, London: Open Humanities Press, 2021, 11.
注6 Timothy Morton, Hyperobjects: Philosophy and Ecology after the end of the World, Minneapolis: University of Minnesota Press, 2013, 134-135.
注7 Timothy Morton, Humankind, London: Verso, 2016, 189.
注8 篠原雅武「人間以後のエコロジー哲学」『環世界の人文学』石井美保、岩城卓二、田中祐理子、藤原辰史編、人文書院、2020年。
注9 同上。

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篠原雅武(しのはら・まさたけ)

1975年生まれ。京都大学総合人間学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。哲学・環境人文学。現在、京都大学大学院総合生存学館(思修館)特定准教授。単著書に『公共空間の政治理論』(人文書院、2007年)、『空間のために』(以文社、2011年)、『全‐生活論』(以文社、2012年)、『生きられたニュータウン』(青土社、2015年)、『複数性のエコロジー』(以文社、2016年)、『人新世の哲学』(人文書院、2018年)、『「人間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020年)。主な翻訳書として『社会の新たな哲学』(マヌエル・デランダ著、人文書院、2015年)、『自然なきエコロジー』(ティモシー・モートン著、以文社、2018年)。現在『人類(Humankind)』(ティモーシー・モートン、岩波書店、2022年)の翻訳刊行が予定されている。


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