R氏の一生

R氏は愉快な人である。
畳の上を這いずり回り、孫どもを追いかけまわすのだ。
疲れるとごろん、と横になり、すぐに昼寝をしてしまう。

R氏は苦労人である。
戦争が終わった時に、中国の大連にいた。
帰国のために1年かかったので、高校は1学年下の学年になった。
そのお陰で、同級生になった図書委員の中に、後の嫁さんになる人が居た。

R氏は奇想天外な人である。
孫娘に、ホテルのケーキセットをご馳走しながらこう言うのだ。
「そろそろ、墓を買おうと思うのよ。
お墓にセンサーとスピーカーを付けておいて、人が来ると、
『遠路~はるばる、ようこそお越しくださいました~』
って言うのにしようと思うのよ。」
「じいちゃん、それ数年後に壊れて、ゼッタイ心霊スポットになるヤツだからやめとこ?」と孫は言った。

R氏は若かりし頃、貧乏であった。
「社会の役に立ちたい」そう強く思った氏は、医学部を志す。
実家に金がなく、叔父が支援を申し出てくれた。が、父は許さなかった。
【小糠(こぬか)三合持ったら婿(むこ)に行くな】
という考えの元、娘しかいない叔父の所へ下宿すると養子にされてしまうと嫌がったのだ。

R氏は体が強くなかった。
医者になれぬのなら、と勉強を半ば放棄して法学部に入った。
3年生の時に、結核を発症した。
引き揚げの時に母が拾い、帰国してすぐに彼女の命を奪った病気だ。
2年間、病院のベッドの上で過ごした。
手術で片方の肺を摘出して、助かった。
後に「いやぁ、医者に6:4で成功すると言われてね。」
とR氏が友人の医者に言うと、
「いや、お前、あれは6:4で失敗する手術だったぞ」
と言われたそうだ。

R氏は博識である。
孫が知らない言葉を、手紙の中で教えてくれた。
「義絶」「要用」「不一」等。
孫の父親と縁を切ったという趣旨の報告の中で。

R氏は西部邁をプライベートの師としていた。
自分の死に様は自分で決める、と
嬶(かかあ)の面倒一つ見られなくて何が男だ!という信条としていた。
嫁がボケて、高齢者住宅に入った。
孫への電話で
「横でおばあちゃんが寝てるんだけどね、いびきがうるさいのよ。
もう本当に、うるさいの。で、その寝顔をじぃっと見てるのだけどね・・・かわいいのよ。こんなにうるさいんだけど、かわいいのよ。」
とのたまった。
孫がR氏の惚気を聞いたのは、初めてである。

R氏は2020年8月、コロナ下に逝った。
日本人の平均寿命を越えて、癌の治療を拒否し、
葬儀屋の手配も全て自分で済ませて。


敬老の日に寄せて。


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