自問自答自己の探究

自問自答自己の探究

最近の記事

心の中の孤独

私はいつも人々の輪の中心にいる。友人も多いと言われる。しかし、その中心で立ちながらも、私は常に深い孤独を感じている。私に起こる事象も、人から向けられる感情も、いつもどこか他人事のように思えるのだ。 共に目標を達成した時も、周囲の喜びを自分のものとして感じることができない。他人との喜びの分かち合いが、私にはまるで不可能な苦しみとなる。私はただ、その場にいるだけの存在で、本当の意味での共感を知らない。 さらに、親族が亡くなった時も、私は何も感じることができなかった。周りが悲し

    • 感情の壁

      私は、他人が何を考え、なぜそのように感じるのかを理解することができる。人々の悲しみや喜びの源を見つけ、その理由を理解することもできる。しかし、そのすべてを真に共感することはできない。私の内面には、他人との深い共鳴を妨げる壁がある。 この壁の向こう側には、怒りと嫉妬しか存在しない。他人が経験する幸せや悲しみを、私はただ遠くから見ることしかできない。それらの感情は、私には理解できるが、共感することはできない。私には、自分自身の怒りと嫉妬しか感じることができないのだ。 この限ら

      • 「他人の笑顔と心の奇跡:日常の中の小さな幸せ」

        ある日、私は見知らぬ人の笑顔に出会う。その笑顔が、私の心に不意に触れた。その一瞬、私は何かを感じた。小さながらも確かな幸せを。それは、まるで冬の寒さの中でふと感じる暖かい日差しのようなものだった。 しかし、その後、私は再び自問する。この感じた幸せは、本当に私のものなのだろうか。他人の笑顔を見て生まれたこの感情は、何を意味しているのか。それは単なる同情なのか、あるいは人間としての共感なのか、それとももっと異なる何かなのか。 私は、この感情の深淵に思いを巡らせる。誰かの笑顔に

        • ふと見つけた小さな喜び

          私は、日常の中で、ふと小さな喜びを見つけることがある。ある日、街角で咲いている一輪の花に目を留めた時、心にわずかながらの温もりを感じた。その花の色彩の鮮やかさ、生命力に満ちた姿に、久しぶりに心が動かされたのだ。 しかし、その後私は思う。この感じた喜びは真実なのだろうか、それとも単なる自己欺瞞、錯覚なのではないかと。感情の起伏の乏しい日々を送る中で、私は小さな喜びを探し求めている。だが、それは本当に喜びなのか、それともただの心の作り物、希望の見せかけなのか。 私はこの疑問に

          "感情の動かなさ、私の感情を探す旅”

          私は、日々の徒然なる日常の中で、ある種の感情の停滞にしばしば直面する。喜びも怒りも悲しみも楽しみも、それらがあまりにも静かになりすぎて、時には自分の感情が枯れてしまったのではないかと思ってしまう。 朝、目覚めて窓の外を見ると、そこには変わらぬ景色が広がっている。太陽は昇り、鳥たちは歌い、風は木々を揺らす。しかし、私の心は、その美しさに対して無反応なのだ。かつては心を奪われた小さな瞬間たちが、今は何の感動も呼び起こさない。 私はこの感情の動かなさに嘆く。なぜなら、人間として

          "感情の動かなさ、私の感情を探す旅”

          「徒然なる日常の中で」

          私は、ふとした瞬間に、日常の中の非日常を見出すことがある。日常は、その一見すると退屈な連続性の中に、意外な美を隠し持っている。窓の外を見れば、雨に打たれた街路樹が、なんともいえぬ風情を醸し出している。その一本一本が、まるで人生の一幕のように思える。雨粒が葉をたたく音は、静かな音楽のように私の心に響き、それは時に激しく、時に穏やかに、日常の風景を彩る。 私たちは、日々を生きる中で、小さな幸せを見落としがちだ。しかし、そこには無数の物語が満ちている。たとえば、朝の通勤電車の中で

          「徒然なる日常の中で」