好き嫌いにかかわらず、大事だという感覚に気付くことが先決。
さっきテレビを見ていたら、
「自分が好きではない」と悩む人が、
「ホメおじさん」というサービスを利用していた場面があった。
そのホメおじさんから絶賛されることで、
少しだけ自己肯定感が上がって前向きな気分になれるのだという。
でもこれを観ていて、
「自分が好きではない」と悩むことって
あまり意味がないことだと思ってしまった。
そんなことに悩む暇があったら、
自分を大事にすることに注力すればいいからだ。
そもそも自分が大事だと思わない人は
いないのではないか。
なぜなら、自分の体調が悪ければ苦しむし、
邪険に扱われたら、不愉快になるからである。
もし、自分のことをどうでもいいと思っていたら、
體が出す不調のサインや他者からの誹謗中傷など、
どうでもよくなるはずである。
でも、自分が嫌いだと言っている人でさえも、
体調が悪くなれば病院に行くし、侮辱されれば怒るだろう。
喜怒哀楽の怒りの本質とは、
大事なものを守るためだというが、
自分が侮辱されて怒るのは、
自分の尊厳を大事だと思っており、
それを守るためである。
ならば、怒りの感情というのも持ちえないはずである。
だから、どんなに自分のことを嫌いだと言っている人でも、
自分の事を侮辱されたら怒るのは、
自分のことを大事だと思っているからに他ならない。
自分のことを嫌いだと思うヒマがあったら、
自分を大事にするためにやれることをやった方が、
理に適っていると思えてならない。
自分を大事にしないなら、
他人に大事にしてもらおうと思うのは、
明かな矛盾ではないかと思う。
「自分のことはあまり好きではないけど」
っていう前置きは、一切いらないのではないか。
そのセリフは一体何を目的としているのだろうか?
そういえば、私は自分のことが好きか嫌いかということを
考えたことがなかった。
ただ単に自分をとても大事に扱っているので、
そんなことを考える必要すらなかったからだ。
そして、私のことを大事に扱ってくれる人や、
自分を大事にケアするための助けとなってくれる人のことを
有難く感じ、その人たちのことも大事にしたくなる。
このように自分を大事にしていると、
大事だと思える感覚も自分の外に拡張していけるのである。
よく、自分の顔やスタイルを気にくわず、
だから自分が嫌いだと言っている人がいるが、
この感覚もよくわからない。
そもそも、自分の體が自分の持ち物だという感覚もあまりない。
なぜならば、本当に自分の持ち物ならば、
自分の顔やスタイルは、自在にデザインできても良さそうだからである。
(生き方で表情は作られてはくるので、部分的にはデザインはできるが)
だから、この體自体、借り物のような感覚であり、
借り物である以上、他者と比べることは無意味だし、
容貌が評価されている他者を見ても魅力は感じても、
相対的に自分を卑下する感覚はない。
私の場合はとてもありがたいことに、
この年まで何の支障もなく健康でいられたので、
ただただそのこと自体が有難く、
この體の健康維持能力に敬意を感じているし、
その状態を今後も大事にしたいと思っている。
だから、そこには、好きとか嫌いとかいう感想以前に
大事だし感謝だし尊敬だという想いの方が遥かに強い。
それで十分な気がするし、
そこに好き嫌いという感想を持つのは、
なんか違うような気がするのである。
好き嫌いではなく、大事にできているか否か。
そちらを気にして生きた方が、
シンプルだし愉しいような気がしてならない。