虫の鳴き声と鼻をすする音、何が違うのか?

虫の鳴き声を風流と感じるのは、日本語脳の御蔭だと言われている。

日本語の構造が日本語脳を作り、
日本語脳による世界の切り取り方が、
その他言語圏の人にとってはノイズに過ぎない虫の鳴き声を、
風雅なものに感じさせるらしい。

ところで、私は音に対して多少敏感で、特に「エヘン音(痰を切る時の)」や「鼻啜り音」や「クチャクチャする咀嚼音」に対して生理的嫌悪感を抱いてしまう。

図書館などで読書をしていても、周囲でこれらの音が聞こえると、
集中が削がれてしまう。つまりかなり気になるノイズなのである。

実はこの記事を書いている真っただ中、私の座っている席の近くの若者が、
まさに鼻啜り音を連発しているのだが、

そのノイズ対策としていつもどおりに、
イヤホンとイヤーマフをして自然環境音を流そうと思ったのだが、

ふと、「虫の鳴き声に対する認識の違い」を思い出し、
この鼻啜り音をノイズとして捉えない認識のあり方があるのかも
しれないと考えたのである。

私は、虫の鳴き声に赴きを感じる。それは日本語脳的な反応なのだろう。
その一方で、鼻啜り音には不快さを感じる。

鼻啜り音というのは、欧州では特にNGなノイズらしい。
ということは、西洋的な音感も強いということなのか?

だとすると、私の中には、
日本的と西洋的の両方の音感が混在しているということにならないか?

西洋人にとってはノイズに感じる虫の鳴き声を風流に感じられるのなら、
同じく西洋人にとってのノイズである鼻啜り音についても、
そこまで不快に感じずにすむのかもしれない。

そう思っただけで、
何か今までとは違う新しい認識のチャンネルが開通し始めた気がする。

「心地いい」と「不快」以外の「気にならない」というルート。

そこに「鼻啜り音」を通してやればいいのかも。

最初は、このルートを通り慣れないかもしれないが、
一旦、ラベリングを止めて、
この新たなルートに通してみることを実験してみよう。

それを繰り返してみることで、
「気にならない」のルートがより太くなっていくのならば、面白い。

ところで最近私は、
できるだけフロー状態で一日を過ごしたいと強く思うようになった。

そのためには、「気にならない」のルートの利便性を高め、
これまで不快に捉えていた刺激がそこを通り易くなるようにしていきたい。

ちなみに、鼻啜り音が気になってからこの記事を書き始めたのだが、
書き始めから、ここまでで丁度15分が経過。

その間は全く気にならず、集中してこの記事を書きあげることができた。

ということは、この新たなルートの開通実験は
ひとまず成功したのではなかろうか。

引き続きこの開通実験を続けていこうと思う。

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