「きつそう」や「面倒くさそう」と距離をおけた経験

私は毎朝のルーティンで「5分間筋トレ」をしている。
この内訳は、2分間の腕立て伏せ、1.5分の腹筋、1.5分のスクワットである。

まずはタイマーを2分間セットし、腕立て伏せから開始する。
その間は目を瞑って、ただひたすらに、呼吸とともに、骨と筋肉、臓器、血流などを意識しながら腕立て伏せをするだけである。

回数を数えだすと、「まだ~回しかやってない」とか
「あと~回もやらねば」といった雑念に囚われやすくなるので、
タイマーがなるまでは、そうした回数的なことは一切考えずに、
ただひたすら、自分の身體の感覚を味わうことに集中する。

つまり、腕立て伏せはそのための手段であり、
その目的は、筋トレというよりも、
自分の身體との対話を細かく行うことにある。

これは残りの腹筋もスクワットについても同様である。

ところで私は、
「からだ」というものを表す漢字は、
本来は「體」であることからも、「骨を豊かに感じること」が
「からだ」の機能を引き出すうえで大事だと考えている。

また、「からだ」というものが「意識の容器」だと捉えるならば、
體を認識する意識、つまり身體意識というのが、心と體、
さらに言えば氣というものを三位一体的に連動させる上で
大事ではないかとも考えている。

そのような仮説を立てているからこそ、この5分間筋トレは、
身體意識の精度を高めるうえで、効果的なトレーニングではないかと
思っている。

さて、このようなルーティンをかれこれ9か月ほどやっているのだが、
やはり、このルーティンに挑もうとすると、
「これから2分間も腕立て伏せをやり続けるのは面倒だ」とか
「途中でとてもきつくなってやれなくなるのは嫌だ」といった、
思考が浮かび、その開始を妨げてしまう。

これは未だに起こる思考なのだが、
この思考との付き合い方を学び、上手くいなすこと自体もまた
このルーティンの大きな目的なのである。

これから取り組む筋トレについて、
そのきつい部分にフォーカスするのは、
変革を恐れ、現状を維持しようという脳の機能に
よるものだと考えている。

これを私は「現状維持システム」と呼んでいる。

先にも紹介したように、私がこのルーティンをやるのは、
身體意識を高め、體の機能を引き出していくという
変革状態を得るのを目的にしているのだが、

これは、私が「現状の延長線上にはない、違った人生」を
味わいたいと思っているからである。
(ただし、今の自分を否定しているわけではない)

つまり、私の中には、変革を恐れ現状維持を望む部分と、
変革を望み、まだ見ぬ景色を渇望する部分の二面性が存在しているのだ。

そして、「面倒臭い」という恐れの部分は、自分の心の欲求である
「変革したい」という想いとは相矛盾したものだと言えよう。

このように相矛盾した思考が同居すると
実際にこのルーティンに取り組むさいにはどのような状態になるだろうか?
ここで、その一連の葛藤の流れを紹介したい。

やはり、最初のメニューである2分間の腕立て伏せを開始しようとする際には、「これからきついことをしなければならない。面倒だ」と思ってしまうのだ。

そしてこの感覚自体が、このスタートを遅らせ、さらに迷いを加速させ、
時間と精神的なスタミナだけを消費し、さらに変革から遠ざけてしまうのだ。

私の心は腕立て伏せを通じた身體との対話を愉しみたいと願っているし、
多少疲れるとはいえ、疲れは残らず寧ろスッキリとするので、健康にも貢献するはずである。

ならば、「面倒くさい」という現状維持システム由来のこの感覚に
付き合うのは、自分の心と體の欲求に反した行為だと言えよう。

そう結論づければ、「面倒くさい」という感覚は、
自分自身と一旦切り話す必要がある。

だからこそ、何も考えず、タイマーで2分間をセットしたら、
タイマーを床に置く流れのままに、腕立て伏せに移行するのが
正解だと自分に言い聞かせるのだ。

以上が相矛盾する二面性での葛藤と説得のプロセスなのだが、

やはり、毎日このルーティンを積み重ねていくと、
葛藤から説得までの所要時間は短縮されていくものだ。

最近は、開始前の現状維持システム側の言い訳をバッサリ無視して
やり始めることにちょっとした快感を感じているくらいだ。

実際に腕立てを開始してみる様子としては、

目を瞑って、腕立て伏せの世界を味わっていくわけであるが、
他にはなにも存在しない。ただただ自分の體の活動を味わい、
そこに呼吸とともに意識をとおすのみ。

もちろん、回数を重ねていくと、筋肉疲労の状態にはなるので、
その状態を「きつい」とジャッジし「きつい=嫌だ」というラベリングを
行おうとする意識も浮き出てくる。

そこで目を開けてタイマーを見てみると、まだ30秒も残っている。
そこで意識は「まだ30秒もある」とか「もう無理」とか思い始めるが、
そこでようやく、変革を求める自分の心の出番となり、綱引きを始める。

「きついのでもう止めたい」

と思う現状維持システム側の意識と、

「この感覚を悪いものとジャッジしている意識とは距離をおいて、
この感覚自体を味わい愉しみたい」

という変革を求める心とのせめぎ合い。

さらには、この様子を俯瞰して眺めている自分自身。

そんな3者の存在を味わえる貴重な残り時間なのである。

確かに體はきついが、心はどこか喜んでいる。
この相矛盾する感覚は、従来のジャッジとラベリングのあり方に
意義を唱えてくれるのだ。

そうやって2分間を愉しんだあとは、
「やっぱり現状維持システム側の言い分は嘘だった」と
行動でもって現状維持システム側を論破できた達成感が報酬となる。

そして、その達成感や若干の疲れも無視して
ただちに次のメニューである腹筋に移行する。

そうする理由としては、やはりここでも現状維持システム側が
しゃしゃりでようとするからである。
何とかしてこの5分間ルーティンの完遂を妨げようという意思は
油断できない。

たしかに2分間にわたる、回数にして120回の腕立て伏せの直後というのは、腕部と胸部の筋肉は疲れている。それに呼吸も若干乱れている。
だから、「ここでちょっと休憩」といきたくもなるのだが、

別に体力の限界でもなく、しかもこれから活躍してもらうのは、
腹部と腰部とインナーマッスル、そして骨盤の動きである。
だから、それまでの疲れはあまり関係ないはずだ。

私は、「體のチームワーク力を高める」という目的も
このルーティンに込めている。だから、疲れていない者に
仕事を割り振るという組織での仕事の仕方をそのまま当てはめてみたい。

そうやって引き続き腹筋をすると、
腕部と胸部の疲れはこの運動には殆ど影響を与えないことに気付く。

この気付きもまた、現状維持システムの言い分を黙らせ、
変革を求める心の養分になってくれるのだ。

この1分半の運動を終えると、あとはスクワット。
ここでは脚部がメインなので、別の運動。なんの問題もなくクリア。

わずか5分間で、自分の體と心と濃密な対話ができ、
おまけに體を温めてくれる。しかもその間のカロリー消費量はおそらく
50キロカロリー以上はあるだろう。

今はやりの「コスパ」や「タイパ」でいえば、非常に優れているだろう。

そして、最大のメリットといえば、やはり変革を求める心の声に耳を傾け、それに素直に従う練習になるということである。
自己肯定感を高める効果もありそうだ。

このルーティンをやり始めてから、あまり自己顕示欲がしゃしゃりでなくなった気がするし、人間関係も楽になれたようだ。

さらに言えば、
このルーティンの効果は、筋トレだけでなく、
記事を作成する上でも役になっている。

記事を書くのは最初は面倒に感じるものだが、
面倒に感じさせているものの正体が現状維持システムであることは
分かっているため、筋トレ時の要領で心の声を優先させて、

ただ単純に、自分の思考を外に書き出すという行為を
味わい愉しんでいくだけである。

「記事作成は面倒だし、疲れる行為だ」という現状維持システム側は、
それを立証するかのように、作業中の呼吸を浅くし、肩や首を緊張させて、
「きつい状態」を現象化させてくるが、

そのような現象に対しては、「本当に記事作成は面倒で疲れるものなのか?」と中立的な問いを投げかけ、深呼吸してリラックスすることを
促していくのである。

また、記事作成中に遭遇する「この内容や表現でいいものだろうか?」
という葛藤についても、「果たしてそれは苦しいものだろうか?」と
中立化させる問いを投げかけることで、その葛藤らしき状態を
味わえばいいのである。

この記事を書き始めた60分前には、
「面倒くさい」とか「伝えたいことを言語化するのは難しそうだ」
といった、現状維持システム側の思考が浮かんだが、

5分間筋トレと同様、なにも考えずに、タイマーをセットし、
記事作成の世界を味わうことだけを意識した結果、
こうして記事を書きあげることができたのである。

やはり、このやり方の応用範囲は広そうだ。


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