自分にとって大原則としたい事(注意の向け方とエネルギーの関係)
タイトルは忘れましたが、数年前に読んだ本の中で
とても印象に残る大事なことが書いてありました。
それは、
「人は、注意を向けたものにエネルギーを注ぐ」
ということです。
この著者は、プロのマジシャンなので、
この原則を思い切り仕事に活用しています。
というより、この原則なくしてマジックはできないようです。
なぜなら、マジックの多くは、
「ミスディレクション」
を使っているからです。
ミスディレクションとは、
種を仕掛ける動きを悟られないように、
おとり的な動作を行って、観客の注意をそちらに向けさせることです。
よくアクション映画なんかで、
空き缶を投げて、その音に敵の注意を向けさせて、 その隙に逃げるという場面がありますが、
あれなんかも、ミスディレクションの活用だといえるでしょう。
つまり、ミスディレクションとは、いったん注意をむけさせてしまえば、
それ以外の部分に関する人の認知というのは、隙だらけになるという
認知の構造を逆手にとった手法なのです。
そして、これは、「人は注意を向けたものにエネルギーを注ぐ」という
大原則に則って機能しているわけです。
「人は注意をむけたものにエネルギーを注ぐ」
よくよくこの原則の意味を味わってみて、 私は次のことに気づきました。
「感情も、注意とエネルギーの関係の応用で切り替える事が可能ではないか」と。
私のアートである「時間価値創造」の目的の一つとは、 「今ここに生きる」ことですが、
「今ここ」を阻むものは、過去と未来への思考の行き来だったり、
怒りや不安に浸ってしまうことです。
だから、感情の整理という部分も私にとっては非常に重要なものとなります
さて、感情とは、心的なエネルギーを発生させたり、消耗させたりする働きをもっています。
そして、ある感情が沸き起こったとき、 そこには、必ずその感情を呼び起こすに至った出来事が存在します。
順番的には、必ず、
「出来事の発生」→「感情の発生」となります。
何もないところからは、感情は芽生えないのです。
実際に出来事がおきない場合でも感情が発生する場合がある、という意見も聞こえてきそうですが、
その場合でも、かならず、「ある出来事の思い出」があって、感情を引き出しているので、この順番に間違いはありません。
このことを踏まえると、特定の感情に浸り続けるということは、
その感情を呼び起こすような出来事に注意を向けている状態である
と言い換えることができるでしょう。
ならば、その出来事に注意を向けなかったら、その感情を切り替えさせることは、可能となります。
そんなに単純に感情は操られるのか?
実は、思った以上に簡単に操ることができるのではないかと私は考えます。
両親の喧嘩を目にした子供が、喧嘩を止めさせるために機転を利かせ、
お腹が痛くなったフリをして、注意を向けさせるシーンを何かで見聞きした記憶があります。
その時私は、その子の利発さに関心しただけで終わったのですが、
今思うと、その子は、認知のシステムを活用できていたという見方もできるでしょう。
喧嘩中は、怒りの感情が支配的でしょう。
そしてその怒りを呼び起こしたのは、何かお互いに気に障る言動があって、それに注意が向けられていたわけです。
ところが、それ以上に気になる言動、 つまり子供からの腹痛の訴えによって、
両親の注意はこちらに注がれることとなったわけです。
「人の生命に係る出来事」>「自分達の沽券に係る出来事」
というのは、人間であれば至極当然な反応です。
いったん他の出来事に注意をそらされることによって、怒りの感情も中断され、新たに、心配な感情が発生するわけです。
つまり、注意対象が変わったことで、そちらに別のエネルギーが注がれることになると、それまでのエネルギーの注ぎ方はなりを潜めます。
なぜなら、人は一度に多くのことは考えられないようにできているからです。
この事例で考えてみると、
私の理屈も納得しやすくなるかと思います。
そういえば、
「怒りそうになったら、数を10まで数えたり深呼吸をしてみる」
という方法は定番として提唱されてきましたし、 その効果は多くの人が認めるところですが、
ここでもやはり、注意とエネルギーの関係が同じように使われているのではないでしょうか。
この記事がお役に立てれば嬉しいです。