運命を変えてくれた一文~判断力の本来の使い方とは~
あるnoterの方の記事の中で、
私の運命を大きく変えてくれた一文に出会うことができた。
それは、
「判断力とは他者をジャッジしたりラベリングするためではなく、
瞬間瞬間に訪れる「一線を越える時」に発揮するものである。」
というものだ。
この一文は、私にとってあまりに目から鱗過ぎて、
しばらく悶絶していたくらいであった。
そのフレーズと出会った頃、
私は古い知人達との蟠りに苦しんでいた。
当時の私から見て、その知人たちは、あまりに自己中心的で
他者への思いやりに欠ける振る舞いをしていたので、
私はそんな彼らに激しい憤りを感じていたのだ。
そんな中、この一文と出会うことができ、
もしかして私の中の憤りは、
「判断力」の誤用によるものかもしれない、
と少し冷静になって見つめ直すようになれた。
そして、私が彼らに抱く激しい憤りというものの成り立ちを
振り返ってみると、
その正体とは、
あくまでも私の経験則とそれに基づいて形成してきた常識の概念を
踏まえて彼らに下したジャッジによるものであり、
さらには、そのジャッジによって、
繰り返し何重にもコーティングされてきた彼らへの
「薄情者」というラベリングによって肥大化したもの。
それが、彼らに対する激しい憤りが形成されてきたプロセス
ではないかということに気付かされたのである。
私は、自分の常識が世間一般の良識に基づいたものであると
ジャッジして、それを踏まえて自分自身に「妥当な感覚の持ち主」という
ラベリングをしていたのだ。
その一方で、彼らが「妥当な感覚の持ち主」である私とは相反する態度
であることを根拠に、彼らの態度を「非常識なふるまい」だとジャッジし、彼らを「非常識で薄情な人間」だとラベリングしていたのだ。
そうやって、私が正義側の人間であり、彼らは非情な人間だという
対立構造を自ら構築していたということにも気付かされたのである。
そう考えると、これまでの彼らへの憤りの感情というのは、
自作自演の独り相撲なのかもしれない、
と自らに疑いの目を向けることができたのだ。
「判断力とは他者をジャッジしたりラベリングするためではなく、
瞬間瞬間に訪れる「一線を越える時」に発揮するものである。」
この一文が私にくれた気付きは、
まさに運命を変えるレベルのものであった。
実はこの一文と出会った日の数日後に、
その知人らと会う事が予定されていたのだが、
それまでは、私は憤りのままに、
彼らにモノ申してやろうと構えていたのだ。
このような臨戦態勢からの発言というのは、彼らへの宣戦布告であり、
それはまさに「一線を越える」ことに他ならなかった。
しかし、
私はこの一文のお陰で、自分が愚かにも衝動に任せて一線を越えようとしていたことに気付かされ、一旦ジャッジやラベリングを中断し、一線を越えないという決断をするために判断力を駆使することができたのだった。
そのお陰で、その知人達との話し合いは、
拍子抜けするほどに平和的に終えることができたのだった。
それというのも、私が彼らと話合いに臨むときに、
先手必勝とばかりに、これまでの蟠りの原因は私にもあることを
詫びることができたからだ。
これは私にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの勇気の発露
であったのだが、これだけのことができたのも、
「本来の判断力の駆使の仕方」を実践できたお陰である。
「本来の判断力は一線を越える時に用いるべし」という教えを
実践してみることで、ジャッジやラベリングによるリソースの浪費を
回避でき、正念場のためにリソースを温存できたためである。
そのため、思ったよりも実にあっけなく、
私は態度を変えることができたのだった。
行動変容というのは、バンジージャンプのような蛮勇を要するものではなく、普段からエネルギーの浪費を防ぐことで普通にやれるものなんだという
手応えを感じることができたのだ。
自分が変われば相手も変わる。
いきなり私が、自分の非を認めて謝罪をしてきたことに、
その知人は面食らいつつも私のことを認めたのか、
その場の主導権が私に渡った感じとなったのである。
その瞬間、私はドラクエのレベルアップ時のファンファーレの音を
聞いたような気がした。
そして、目の前に知人達に対して抱いていた激しい憤りは
いつの間にか解消していたのである。
「判断力」というのは、まさに諸刃の剣だと実感している。
今までなんとジャッジやラベリングばかりをやって、
頭脳のリソースを浪費してきたことか。
これが本当に愚かで勿体ないことであったことを心から納得している。
ただ、世間一般、特にSNSやメディアでの報道の在り方などをみると、
相も変わらず、他者へのジャッジやらべリンングのために、
判断力を使いまくっているようだ。
そこには、その一線を越えたらどれほど相手が傷つき、
取り返しのつかない悲劇となってしまうかという想像力など
機能していないかのようである。
「他者は自分の合わせ鏡」だと言われるが、
かつての自分はまさにその惨劇に加担する側であった。
それが、この一文と出会えたことで、
この惨劇から自身を解放することができたようだ。
もちろん、完全にマスターしたわけではないだろうが、
それでも、ジャッジやラベリングが大幅に減った分、
見える景色が劇的に変わったのを感じている。
この一文を書いてくださったnoterの方に心から感謝申しあげたい。