「そもそも学びとは何か?」
前回の投稿では、
「学びを愉しむ力」
について書きましたが、
そもそも「学び」とは何なのでしょうか?
このことをちょっと考えてみました。
私にとって「学び」とは、2つの定義を持ちます。
まずは、第一の定義として、
「学びとは、単なる情報を主体的に編集すること」
だと考えています。
「認識」や「把握」と「学び」との違いは
主体的な編集の有無だというわけです。
だから、認識力や把握力に長けた人が
必ずしも学びに長けているとは限りません。
この定義は、私にとっては辞書的な位置づけです。
ところで私は、
言葉を辞書的に理解するときには
自分の肌感覚にしっくりとくる表現に翻訳することが、
なにより大事かなと思っています。
「自分の外部に客観的に存在する辞書」とは別に
「自分の内部に主観的に存在する辞書」を持っておかねば、
おそらく言葉自体を認識することが不可能になってしまうからです。
また、自分の世界観を豊かにするためには、
主観的な内部辞書を充実させていくことが必要かと思います。
だから、「学びを愉しむ」こととは、
主観的な内部辞書を充実させ、
世界観の色彩と解像度を高めていくことなのかもしれません。
そのためにも、学びの第一の定義とは
「単なる情報を主体的に編集すること」
だと考えており、
それが今のところとてもしっくりくるのです。
次に、2つ目の定義ですが、
「学びとは、自己実現のために役立つツールであり、
納得の行く自分を創るためのパーツでもある」
というもので、第一の定義と違い、
個人的価値観が強く反映されたものになっていますし、
学ぶ方向性と目的を表しているものでもあります。
ところで、
「自己実現とは何か」については、これまた定義が長くなりそうなので、
一旦置いておきます。
そこでまずは、学びがツールでありパーツでもあると考える
理由についてですが、
学びそれ自体が、思考や記憶の一部を構成するパーツであると同時に、
学びが自身の性質を固定化せず、進化しようとする働きを内包しており、
その働きが、ツール的でもあるからです。
第一の定義で
「学びとは、単なる情報を主体的に編集すること」
と書きましたが、
情報自体がパーツとしての役割を果たしつつも、
編集という営みがそれをツール化し、別の学びの機会に
応用することができるというわけです。
例えて言えば、手足や臓器、感覚器といった人体の各部分のようなものです。
自分自身を構成するパーツでもあり、それ自身が成長し、人生を生きるためのツールとなっているいう点で、人体とも似ていると思います。
では、「自己実現」とは何でしょうか?
それについては長くなりそうなので、次回書きたいと思います。
ところで、
「学びとは何か?」について、
みなさんの考えにとても興味があります。
教えて頂ければ嬉しいです。