絶妙に配置されたトレーナー達に感謝
以前も書いたが、私は最近素晴らしい出会いに恵まれている。
以前の私ならば、ちょっと臆してしまうほどレベルの高い人達だが、
以前ほどは臆さずに接することができるようになったことが嬉しい。
そうなれた理由について考えてみたのだが、
非常に意外な存在の御蔭でそうなれたことに気づいたのだ。
その「非常に意外な存在」というのは何か?
それは「今まで自分がモヤモヤを感じていた人達」である。
私がモヤモヤを感じる相手というのは、
自分ならば当たり前にするであろうことをやらない人だったり、
あるいは、自分ならば決してやらないであろうことをやっている人である。
私は、図書館などの静かに過ごすことが当たり前だと思う場においては、
「できるだけ物音を立てない」ということを当たり前にやろうと
心掛けているのだが、
時々、大声で話したり、ドタドタと走り回る子供を放置する人を見ると、
非常にモヤモヤしていたのだ。
以前は、率直に苛立っていたのだが、
それは、私だったら当たり前に行うであろう配慮をしない
ということに対し「その配慮をするのが当然でしょ!」と
相手に私が考える「公衆マナー」を求めていたからだ。
そして、もっと公衆マナーをしっかり守れる洗練された人達が集まる場に
行きたいと願って求めていたのだ。
ただ、「他人は自分の写し鏡」という認識に立てば、
そうした「他者の非常識な振る舞い」というのは、
自分にも何らかの同種の要素の反映であるだと捉えるのが道理となる。
そう考えて、モヤモヤと向き合い、そこから気づきを抽出することに
チャレンジしたのだが、そこから得られる気づきは思いの他大きく、
それはまるでドラクエでいう「はぐれメタル」級に
「楽勝で経験値を稼げる機会」だと思えるようになったのだ。
その気づきを得て以降、「このモヤモヤは大チャンスだ!」と考え、
モヤモヤに構っているヒマがあったら、それに向き合った方が断然得!
とばかりに、経験値稼ぎにいそしんでいたのだ。
そうすること、かれこれ1か月で、素敵な出会いに恵まれ始めたのだ。
そして、その出会いを起点に数珠繋ぎ式に次々と出会いに恵まれていった。
そこでふと気づいたのだが、
モヤモヤの対象に囚われ、モヤモヤし続けていたあの頃の自分は、
ただひたすら、「ちゃんとした人たちと出会いたい」とばかり
願っていたのだが、もしその願いが即座に適って、
ハイレベルな人達の中に放り込まれたらどうなっていただろうか?
おそらく、自分と相手とのレベルの差に居心地の悪さを
感じていたのではないだろうか?
そう考えると、私は、ちゃんと手順を経て、
素晴らしい人達と出会うことができているのではないか。
あのモヤモヤの対象の人達は、
私が、将来素晴らしい人達と出会ってもあまり臆さないように、
徐々に、自分の心が成長できるように配置されたトレーナーだった
のだと見做すと合点がいく。
そう考えると、彼らに感謝である。
「感謝の難易度が高いことに感謝できた時に、得られるご褒美も大きい」
ということをある方から教わったが、その教えを踏まえると、
さらに肚落ちである。
これは、科学的には根拠に乏しい理屈かもしれないが、
大事なのは、「そう考えたら合点がいく」という
自分自身の肚落ち度である。
肚落ちすれば、行動に迷いがなくなる。
そして行動していき、また新たな肚落ちを体験する。
「エビデンスよりも自分なりの実験と肚落ち」
それぞれが自分なりの自由研究を愉しんでいけばいいのではないか。