我慢よりも勇気にエネルギーを使いたい
「嫌なことを止めて恐いことをする」
この一文に出会って以降、同じ氣力を使うならば、我慢することよりも、勇気を出した方が自分にとっては遥かにお得だと思えるようになった。
深刻に生きている人の大半は、本来自分がやりたいことを諦め、嫌な事を我慢してやっているようにも見える。
嫌な事を我慢してやることは、時には必要なことかもしれないが、我慢する先には希望が必要だと思う。
同じ我慢するにしても、希望がなければ深刻になり、希望があれば真剣になってくる。
真剣と深刻は一見似ているが、そこには我慢に対する希望の有無という点で天と地ほどの差があるのだと思う。
また、未着手な事に取り組んだり、これまでの習慣を見直したりする時に、生命の危険ではないにも関わらず人は恐れを感じるらしいが、そうした恐れを乗り越えるために勇気が必要となる。
だから、勇気よりも我慢を選択する人にとって習慣を変えることは、無意識に生命の危機と同じくらいの恐怖を感じるものかもしれない。
しかし、我慢の比率が高ければ、氣力は消耗していき、勇気を発揮するための氣力さえも食いつぶしてしまうのではないか。
何かにチャレンジすることで活路が切り開けそうならば、その一歩を踏み出すために勇気を発揮したい。
「とりあえずやってみる」くらいの軽い気持ちだと勇気のハードルは下げられるし、やってみた結果、何らかの出会いがあればそこで氣力は高められるし、そこで活路を見出すことで、嫌な事をやる機会は減らせ、即ち我慢の比率も減らせるのではないか。
自分の足元をみれば、「とりあえずやってみる」ことでそこから生まれる微差が大差へとつながりそうな事柄は多いと感じている。
例えば、呼吸や姿勢、歩き方を見直したり、観察する視点を変えてみたり、今まで気になっていた店に入ってみたり、読んだことのないジャンルの本を手に取るなど。
私の経験上、そうした些細なチャレンジが、まるでドミノのように連鎖的に大差を生み、我慢の必要性を減らしてくれるようだ。
我慢にしても勇気にしても、氣力を発揮するというリスクは負わねばならないが、そのリスクに対するリターンの大きさを考えると、勇気を発揮する方に圧倒的に軍配が挙がるだろう。
自分の氣力の使い方は、お金以上に投資感覚が求められるのではないかとも思う。
氣力は有限にも無限にもなりうる要素なのかもしれない。
だからこそ私は、我慢し続けて深刻に生きるよりも、勇気を発揮して真剣に生きる方を選択し、そのルートで氣力を発揮していきたいと思う。
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