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あきつしま 20

104 正親町天皇

1557年10月27日、方仁(みちひと)親王が践祚し、第106代・正親町天皇として即位しました。正親町天皇は後奈良天皇の第一皇子で、母は万里小路栄子(までのこうじ えいし)です。

1559年、正親町天皇は毛利元就から即位料と御服費用の献納を受け、本願寺法主の顕如も莫大な献金を行い、天皇から門跡の称号を与えられました。
同年6月、大友義鎮は豊後、肥後、肥前の守護に加え、将軍足利義輝から筑前、筑後、豊前の守護に任じられました。さらに、11月には九州探題にも任じられ、その勢力を一層拡大させました。

1560年1月27日、正親町天皇は即位の礼を挙げました。
その後、5月19日には歴史的な戦いである桶狭間の戦いが起こり、織田信長が今川義元を討ち取りました。信長の名声はこの戦いで大きく高まりました。
さらに、12月には毛利元就が門司城を攻め落とし、その軍事的成功が報じられました。
こうして、日本各地での動乱と権力争いが続く中で、正親町天皇の治世が始まりました。この時代は戦国時代の中でも特に劇的な変化が多く、各地の大名たちが力を競い合い、新たな秩序を築いていく過渡期となりました。

1561年8月、木下藤吉郎(豊臣秀吉)は24歳で浅野長勝の娘、おねと結婚しました。
9月10日には、甲斐国の武田信玄と越後の長尾景虎(上杉謙信)が激突する川中島の戦いが起こりました。

1562年、藤吉郎は25歳で足軽百人組の頭となり、その存在感を増していきました。
同年6月、大友義鎮は33歳で出家し、瑞峯宗麟と号しました。宗麟に倣い、戸次鑑連(べっきあきつら)も道雪という法名を名乗るようになりました(後の立花道雪)。

1563年、織田信長は30歳で小牧山城に移り、その拠点を固めました。
この年、宣教師ルイス・フロイスが31歳で来日し、以後34年間日本で過ごし、65歳で長崎で亡くなるまで日本の地に深く関わることとなりました。

1564年7月、大友宗麟は毛利元就と和議を結び、その関係を安定させました。

1565年、正親町天皇はキリスト教宣教師を京からの追放を命じました。
同年4月12日、毛利元就は月山富田城を攻め、その軍事的野望を示しました。
5月19日、13代将軍足利義輝が三好家家臣の三好三人衆に暗殺され、室町幕府はさらに混乱の中に突入しました。

1566年、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が29歳で墨俣城を築く「一夜城」を成し遂げた年、織田信長の勢力はますます拡大していました。
同年11月21日には、毛利元就が月山富田城の尼子義久を降伏させ、その軍事的成功を収めました。

1567年、信長は美濃の斎藤龍興を追放しました。

翌年には織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。
信長は三好三人衆を四国へ追いやり、足利義昭を15代将軍に擁立し、政治的実権を掌握しました。この上洛によって、皇室の財政危機は信長の手により回復されました。

1569年8月13日、立花誾千代(ぎんちよ)が筑後の問本城(といもとじょう:福岡県久留米市草野)で誕生しました。彼女の父は57歳の戸次鑑連、母は仁志姫です。

1570年4月には、金ヶ崎の戦いが勃発し、木下藤吉郎は殿(しんがり)として撤退を指揮しました。
同年6月28日の姉川の戦いでは、正親町天皇の勅命により織田・徳川と浅井・朝倉との和睦が成立しました。
同年9月12日には顕如の石山本願寺が織田信長を攻めました。

9月19日、九州では大友宗麟が今山の戦いで肥前国の龍造寺隆信に敗北しました。

1571年、信長38歳の年、彼は比叡山延暦寺との戦いで寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を虐殺しました。
同じ年の12月15日には和仁(かずひと)親王が生まれました。

1572年、木下藤吉郎は羽柴秀吉と改名し、その名を天下に知らしめるようになります。
また、この年、徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗北しました。

1573年、信長は将軍・足利義昭を河内へ追放し、室町幕府を滅亡させました。
この年、大友宗麟は家督を長寿丸に譲り、自らは隠居の身となりました。

1574年、信長は伊勢長島の一向一揆を鎮圧する際、一揆勢の除名嘆願を拒み、女、子供を含む二万人を虐殺しました。
正親町天皇は信長に正倉院の宝物である蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りを許可しました。
この年、羽柴秀吉は近江長浜城の城主となり、その地位を確固たるものにしました。

1575年5月21日、長篠の戦で織田・徳川連合軍は武田勝頼を破り、その軍事力を誇示しました。
同じ年の5月28日、誾千代は7歳にして戸次鑑連から家督を譲られ、6月28日に大友家の許しを得て立花城の城督となりました。

1576年、信長43歳の年、正三位・内大臣の位階と官職を与えられ、権威をさらに高めました。
また、安土山(滋賀県近江八幡市)に安土城の築城を開始し、その新たな拠点を築きました。

1577年、天皇は信長に右大臣宣下し、その地位をますます揺るぎないものとしました。

1578年、大友氏は「耳川の戦い」(宮崎県木城町)で島津義久に大敗を喫しました。

1579年5月、織田信長はその権力の象徴である安土(平安楽土)城の天守閣を完成させました。

1580年8月2日、正親町天皇の勅命により、織田信長と石山本願寺との戦いの和睦が成りました。

1581年、織田信長は内裏東において大規模な馬揃えを行い、その軍事力を誇示しました。

同年8月18日には、高橋宗成(15歳)が戸次誾千代(13歳)に婿入りし、戸次統虎(むねとら)と改名しました。この結婚により、戸次家と高橋家の結びつきが強まりました。

1582年6月2日には、明智光秀が本能寺にて主君織田信長を襲う「本能寺の変」が起こり、信長は49歳でその生涯を閉じました。
この衝撃的な出来事の後、羽柴秀吉は「中国大返し」と呼ばれる迅速な行動で軍を戻し、6月13日に明智光秀を討つ「山崎の戦い」に勝利しました。

この年の一連の出来事は、日本の歴史に大きな転換をもたらしました。信長の死、羽柴秀吉の台頭、そして新たな暦法の導入が、次の時代への扉を開くこととなりました。

【この年、グレゴリオ暦がローマ教皇グレゴリウス13世によって導入されました。これはユリウス暦の改良を目的とし、1582年10月15日金曜日から行用されることになりました。】

1583年11月、羽柴秀吉は大坂城の築城に取り掛かり、自らの権威を一層強化しました。
秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とすることで、その政治基盤を強固にしました。

1584年の「小牧・長久手の戦い」において、秀吉は徳川家康と講和を結びました。
同年、龍造寺隆信が島津氏との戦いで戦死し、9月11日には戸次鑑連(立花道雪)が病死しました。
道雪の死後、宗成と誾千代は別居することになりました。

1585年、秀吉は四国の長宗我部元親を屈服させ、五摂家の近衛前久(さきひさ)の猶子となり、藤原姓を名乗りました。
また、正親町天皇から関白宣下を受け、大名間の死闘を禁じる惣無事令を発令しました。
さらに、信長が復興した伊勢神宮の式年遷宮が120年ぶりに行われました。

1586年、秀吉は太政大臣に就任し、豊臣姓を賜りました。
3月、大友宗麟は秀吉に自ら臣従することを表明し、秀吉の九州征伐が開始されました。この際、立花宗成も豊臣家の直臣となることを望みました。
この年、11月7日、正親町天皇は孫の和仁親王に譲位し、天皇の座を退きました。
同年12月12日には「戸次川の戦い」で大友義統(よしむね)が敗走し、府内が攻略されました。

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正親町天皇の御世、ポルトガルは明国からマカオの港を借り受けました。10月には、倭寇の頭目である王直が船山の岑港(しんこう)に入港し、1か月後に捕えられました。

また、ギリシャではスペイン・ヴェネツィア連合艦隊とトルコ艦隊が激突するレパントの海戦が起きました。この戦いはオスマン帝国の海上覇権に対する大きな打撃となりました。

一方、イエズス会の宣教師たちは日本についての報告書に、正親町天皇と織田信長の二人が統治者として存在していると記述しました。

さらに、父と祖父が明に殺された女真族のヌルハチは海西女真など、他の女真の諸部族を制圧し、勢力を拡大していきました。

●正親町天皇は戦国大名の献金をもとに即位の礼を挙げることができました。
織田信長が上洛すると状況は一変し、逼迫していた朝廷の財政を回復させました。 
皇室と織豊政権の相互関係は続き、皇室の権威は高まりました。

105 後陽成天皇

1587年4月17日、島津氏は「根白坂の戦い」で豊臣秀吉に完敗し、九州平定が成し遂げられました。
大友義統は秀吉から豊後一国の安堵を受け、大友氏の家臣であった立花宗茂は新たに豊臣家の大名となりました。5月23日、大友宗麟は津久見で病に倒れ、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
同年11月25日、和仁親王が第107代・後陽成天皇として即位しました。後陽成天皇は正親町天皇の皇子である誠仁親王の第一皇子であり、その母は勧修寺晴子(はるこ)です。

その一方で、秀吉はキリスト教宣教師たちに対しバテレン追放令を発布し、宣教活動に対する厳しい姿勢を示しました。

1588年1月、元将軍足利義昭が秀吉とともに参内し、征夷大将軍職を返上しました。これに対して朝廷は義昭に准三宮(じゅさんぐう)の待遇を与え、その功績と地位を称えました。
同年4月には、13歳の後陽成天皇が聚楽第に行幸しました。この行幸は、秀吉の権威を示すための一大イベントであり、天下統一に向けた象徴的な出来事でした。
同年、秀吉は立花宗茂に筑後柳川城を与え、13万2千石の領地を授けました。宗茂の妻、誾千代(戸次鑑連の娘)は柳川城を出て、柳川の宮永村に居を構え「宮永殿」と呼ばれるようになりました。

1590年、豊臣秀吉は小田原攻めを成功させ、関東を平定しました。
その際、諸大名の前で「東の本田忠勝、西の立花宗成、天下無双」と二人を褒め称えました。
同年、秀吉は伊達政宗を攻め、全国統一を果たしました。

1591年、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、自身は「太閤」と呼ばれるようになりました。
10月には朝鮮出兵の前進基地として北九州に名護屋城の築造を開始し、翌年2月に竣工しました。

1592年4月12日、秀吉軍は釜山に上陸し、朝鮮出兵(文禄の役:朝鮮では壬辰倭乱)を開始しました。
この戦役には約15万人の兵が動員され、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正、第三軍を黒田長政が率いました。この朝鮮攻めの際、立花宗成は秀吉から「日本無双の勇将たるべし」と称賛されました。
同年、伏見城の築城が始まりました。

1593年1月5日には正親町院が77歳で崩御しました。
4月には明との講和交渉が行われ、一時的に休戦が成立しました。
しかし、大友義統は文禄の役における敵前逃亡をとがめられ、秀吉の命令で豊後国を改易されました。
この年、秀吉に待望の男児、豊臣秀頼が生まれました。

1596年6月4日、政仁(ことひと)親王が生まれました。
同年、「サン=フェリペ号事件」が発生し、これをきっかけに豊臣秀吉はキリスト教に対する態度を一層硬化させ、庶民の信仰を厳しく制限するようになりました。

1597年、秀吉は再び朝鮮出兵を命じました。
今回は小早川秀秋を総大将とし、14万人の兵を動員して慶長の役(朝鮮では丁酉再乱)が開始されました。

1598年8月18日、豊臣秀吉は伏見城で逝去しました。
秀吉の死後、五大老の徳川家康と前田利家はその死を隠し、撤兵を指示しました。
11月18日、無血撤退を双方合意の上で撤退していた小西軍を明・朝鮮水軍が攻撃しました。撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍との間で起こった露梁海戦(ろりょうかいせん)で、朝鮮水軍の李舜臣が戦死しました。
最後に釜山から撤収したのは小西行長軍と島津義弘軍でした。

1599年、徳川家康は豊臣秀頼の後見人となり、政治の実権を握るようになりました。秀吉は朝廷から「豊国大明神」の神号を与えられ、豊国廟に祀られました。

1600年9月15日、関ヶ原の戦いが起こりました。
立花宗成は豊臣方に味方するために出陣しましたが、戦場に到着する前に西軍の壊滅を知り、大阪城へ引き返しました。その後、島津義弘と合流し、海路で九州へ戻りました。
10月初旬、宗成は柳川城に到着し、誾千代が自ら出迎えました。
10月20日には江上八院の戦いが起こり、5日後の10月25日に宗成は降伏して開城しました。

1601年、徳川家康は京都所司代を設置しました。

1602年、琉球船が仙台藩に漂着し、翌年には39名が琉球に送還されました。
同年7月には立花誾千代が病を患い、10月17日に34歳で他界しました。

1603年、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれました。

将軍宣下のための調停・交渉を吉良家が担い、子孫には後に有名になる吉良上野介がいます。
この年、立花宗成は江戸に入り、本多忠勝の保護を受け蟄居生活を送っていました。

1604年、宗成は忠勝の勧めで江戸城に召し出されました。
家康は宗成を江戸幕府の御書院番頭5千石の直臣として迎え入れ、その後、宗成は秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)にも参加しました。

1605年、徳川秀忠が征夷大将軍に任じられました。

1606年、立花宗成は陸奥の棚倉で1万石を与えられました。

1609年、大坂冬の陣が勃発しました。大坂冬の陣では豊臣家と徳川家の間で激しい戦いが繰り広げられました。

一方、薩摩藩は琉球に出兵し、沖縄諸島以南を従属国とし、奄美諸島を直轄地としました。
琉球は明の冊封を受ける一方で、二重外交を続けました。
また、この年、己酉条約が結ばれ、対馬藩は釜山に倭館を設置し、数百名の対馬藩士および商人たちが常駐しました。彼らは対朝鮮外交および通商に従事し、この制度は明治初期まで続くことになります。

1610年、立花宗成43歳は3万5千石に加増されました。この頃から「宗成」と名乗り始めました。幼少期には「吉弘千熊丸」として知られた宗成は、これまでに16回も名前を改名してきました。

1611年3月27日、後陽成天皇が政仁親王に譲位しました。

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後陽成天皇の御世、オランダはインドネシアに橋頭堡(きょうとうほ)を築き、植民地支配を開始しました。
また、1607年には朝鮮は文禄の役・慶長の役後、初めて「回答兼刷還使」(第一回朝鮮通信使)を日本に派遣しました。

●徳川幕府は朝廷の官位の叙任権や元号の改元を統括するようになりました。
後陽成天皇は火葬で葬られた最後の天皇です。

豊臣秀吉が奏請して世襲親王家である「桂宮」が創設されました。桂宮初代当主は後陽成天皇の弟です。

後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇が在位していた頃の16世紀の世界は、さまざまな重要な出来事と変革が起きた世紀です。

ヨーロッパでは、15世紀から16世紀にかけてルネサンスがピークに達し、芸術、科学、文学の分野で多くの進展がありました。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの著名な芸術家が活動しました。

1517年にマルティン・ルターがカトリック教会の改革を求めました。これが宗教改革の始まりとなり、プロテスタントとカトリックの対立が深まりました。

ヨーロッパの探検家たちが新しい航路を発見し、アメリカ大陸やアジア、アフリカとの貿易が活発になりました。クリストファー・コロンブス、フェルディナンド・マゼラン、バスコ・ダ・ガマなどの探検家がこの時期に活躍しました。

東アジアでは、明朝の後期にあたり、経済的には繁栄していましたが、内部の腐敗と外部からの侵略に苦しんでいました。海賊の活動が活発化し、倭寇(わこう)が中国沿岸を襲撃しました。

インドでは、ムガール帝国が台頭し、アクバル大帝(在位:1556年~1605年)の下で大きく繁栄しました。アクバルは宗教的寛容政策を取り、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の共存を図りました。

アメリカでは、16世紀初頭にスペイン人の探検家たちによって征服されました。
1519年にエルナン・コルテスがアステカ帝国を、1532年にフランシスコ・ピサロがインカ帝国を征服しました。

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