明治のはなし(あきつしま) 7
1873年(明治6年)、日本はまた一つの大きな転換点に差し掛かっていた。
1月10日、政府は「徴兵令」を公布し、全国の男子に兵役の義務を課した。これは、江戸時代の武士階級に限定されていた軍事の役割を、すべての国民に広げるものであった。農民たちはこの新しい制度に驚き、不安を抱いた。農作業に従事してきた彼らにとって、突然の兵役は生活を脅かすものであり、各地で徴兵反対の一揆が勃発した。しかし、政府は「血税」として徴兵を国の基盤とし、近代国家としての防衛力を整備するためにこの制度を強行した。
同年、徴兵令に続いて「地租改正条例」が公布された。これは、農民がこれまで年貢として納めていた税を、土地の収穫高に基づくものから土地の価格に基づくものへと変更する制度だった。地租は金納となり、一定の割合で納税が求められるようになった。しかし、地価の評価が不透明であったことから、農民たちは新たな税負担に苦しむこととなった。田畑を耕し、汗水垂らして生活を支えていた農民たちにとって、この改正は予期せぬ重荷となり、各地で不満が噴出した。
9月13日、右大臣・岩倉具視らを中心とした「岩倉使節団」が、約2年にわたる欧米視察を終えて帰国した。彼らはアメリカやヨーロッパ諸国を訪れ、各国の政治制度、産業、教育、軍事を詳細に観察し、日本が進むべき道を模索していた。帰国後、岩倉は使節団が得た知見を基に、日本の改革をさらに推し進めようとした。特に注目されたのは、憲法や議会制度、そして中央集権化された政府の必要性だった。欧米の先進技術や制度を積極的に取り入れようとするこの考え方は、国の未来に大きな影響を与えることとなった。
一方で、国内では「征韓論」を巡って政府内が激しく紛糾していた。西郷隆盛をはじめとする強硬派は、朝鮮に対して軍事行動を起こし、武力で開国を迫るべきだと主張していた。彼らは、朝鮮が日本の使節を侮辱し、貿易や外交を拒んでいることを強く非難し、武力をもって朝鮮を屈服させるべきだと考えていた。これに対して、岩倉具視や大久保利通らは、まだ日本が国内の改革を進めている最中であり、軍事行動を起こすべきではないと反対した。この対立はやがて決定的な亀裂を生み、西郷隆盛や板垣退助らは政府を去ることとなった。これが「明治六年の政変」と呼ばれる、政府内での大きな変革であった。
西郷隆盛が去った後も、政府は内部の再編成を進め、朝鮮との対話を模索する姿勢を維持した。しかし、この事件をきっかけに、日本の政治における武力行使か平和的交渉かという問題は、今後も大きなテーマとして残ることとなった。
さらにこの年、朝鮮半島でも大きな変化が起こっていた。釜山の倭館が、これまで対馬藩の管轄下にあったが、外務省の管理へと移管された。
これにより、日本と朝鮮の関係が直接的な外交の場へと移行し、政府はより積極的に朝鮮との交渉に関わることとなった。朝鮮内部では、大院君(李太王)が摂政の座を追われ、国王高宗が親政を開始した。この政変は、朝鮮国内の派閥争いを激化させ、「事大派」と「改革派」に分かれることとなった。事大派は、朝鮮が清国に依存し、従属することで安全を保つべきだと主張した。一方、改革派は、日本のように近代化を進め、独立した国として自立することを目指した。
この状況の中、日本は朝鮮に対する姿勢を慎重に模索していた。征韓論の影響が薄れつつも、朝鮮半島での改革派との接触を試み、徐々に日本の影響力を拡大しようとする動きが見られた。一方で、朝鮮半島の内政は依然として不安定であり、日本がどのように関与すべきかは明確ではなかった。朝鮮が内外の圧力にどう対応するかは、今後の日本と朝鮮の関係を左右する大きな課題となった。
1873年は、内政と外交が大きく揺れ動いた年であった。国民皆兵を目指した徴兵令と、土地制度の再編を試みた地租改正、そして岩倉使節団の帰国が示すように、日本は急速に近代国家としての形を整えつつあった。しかし、その一方で、国内の政治的対立や朝鮮半島における緊張が、日本の未来に影を落とし続けていた。征韓論の挫折と西郷隆盛の退場は、一つの時代の終わりを告げるとともに、明治政府がこれから迎える新たな挑戦の始まりを予感させるものであった。