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明治のはなし(あきつしま) 2
3月14日、京都の御所では、朝廷の重臣たちが静かに集まっていた。
明治天皇が五箇条の御誓文を発布するその瞬間が訪れたのだ。この御誓文は、これまでの封建制度を乗り越え、国を挙げて新たな政治体制を築くという大きな誓いであった。御誓文の中には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という言葉が記されており、これまでの武士階級の独占的な支配を改め、全国民が政治に参加する新しい社会の構築が掲げられた。
若き天皇の手は震えていたかもしれない。けれども、その目には確固たる決意が宿っていた。この誓文は、長きにわたる封建社会からの脱却を宣言し、日本を新たな道へ導く鍵となるものであった。
その後も、歴史は急速に動いていく。
4月11日、江戸城がついに無血開城をした。かつての徳川幕府の権力の象徴であったこの城が、流血を避けて平和裏に新政権に引き渡された瞬間は、日本史において一つの大きな転換点であった。西郷隆盛と勝海舟の交渉によって、この無血開城が実現した背景には、武力ではなく、新しい日本を作るための知恵と対話が優先されたという強い信念があった。
そして閏4月21日、新しい政治制度が採用された。
旧来の封建的な藩主制度を改め、中央集権的な政府が次第に形成されていった。この動きに伴い、各地の藩主たちは、自らの領地と支配権を新政府に返上する「版籍奉還」の上表を提出することとなる。4大藩主—薩摩、長州、土佐、肥前—が連署して提出したこの上表は、近代国家としての統一と再編成を示すものであり、明治政府が次第に力を増していく過程を象徴していた。
10月13日、東京への奠都が正式に行われた。
長きにわたって日本の中心であった京都から、江戸、すなわち新たに「東京」と改名されたこの地へと首都が移されることは、象徴的な出来事だった。古の都から新たな都市へ、国の中心が移動するこの決定は、近代化を目指す政府の強い意志を反映していた。賑やかな江戸の町が、新たな首都として生まれ変わろうとしていた。
しかし、日本の内外において平穏だけが訪れるわけではなかった。
12月9日、「王政復古の大号令」が発せられると、古い制度に固執する者たちとの対立が激化した。12月11日に「鳥羽伏見の戦い」が始まり、ここで新政府軍は旧幕府軍と激しく衝突することになる。この戦いは、徳川幕府の最後の抵抗と、新たな時代を築こうとする明治政府との間で繰り広げられた歴史的な戦いだった。
鳥羽伏見の戦いが始まったころ、薩摩の英雄・西郷隆盛は、自らの髪を剃り落とし、頭を丸めて入道することを選んだ。彼の決意は揺るぎないものだった。新しい時代の到来を見据え、自分自身もまた清廉な気持ちでそれに臨むことを誓ったのである。
同じ12月、明治政府は朝鮮に王政復古を告知する。日本が新しい政治体制を確立し、国内外での地位を確立しようとするこの動きは、隣国に対しても強いメッセージを発することとなった。日本は変わった、そしてこれからは国際的な舞台で自らを主張していくという強い意志が込められていた。
こうして1868年は、日本にとって激動の一年となった。幕府の終焉、新しい政治体制の確立、戦い、そして奠都。これらの出来事は、すべてが繋がり合いながら、日本を新しい時代へと押し進めていった。
五ヶ条ノ御誓文
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
我國未曾有ノ変革ヲ爲ントシ
朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ
大ニ斯國是ヲ定メ萬民保仝ノ道ヲ立ントス
衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
明治元年三月十四日