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あきつしま 19

101 後土御門天皇

1464年7月19日、成仁(ふさひと)親王が践祚しました。10月20日には勝仁(かつひと)親王が誕生しました。1465年12月27日、成仁親王が即位し、第103代・後土御門天皇として即位しました。後土御門天皇の父は後花園天皇、母は大炊御門信子(のぶこ)です。

1467年、京では山名宗全と細川勝元の間で「応仁の乱」が勃発しました。
東軍の細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請された後花園上皇はこれを拒否しました。後土御門天皇は乱を避けるため、将軍足利義政の室町第に10年間避難生活を強いられました。

1470年12月27日、後花園上皇は室町第で崩御しました、53歳でした。

1473年、山名宗全と細川勝元も相次いで亡くなり、12月には8代将軍足利義政が8歳の義尚に将軍職を譲りました。

1477年のころには、京での戦闘が収束しましたが、京の町は焦土と化し、朝廷の行事や儀式は中止となりました。
多くの公家は地方に疎開し、荘園は崩壊して、将軍の支配領域は山城国一国となり、将軍の権威は失墜しました。その結果、下剋上が高まり、戦国大名が台頭する時代となりました。

1479年4月に、細川政元と山名政豊の間で和睦が成立しました。

1482年、足利義政は京の東山に山荘である銀閣寺(慈照寺)を開き、「東山文化」が花開きました。

1484年、蓮如は山科に本願寺を建立しました。

1485年、山城国では百姓が武士と団結し、守護大名の畠山氏を追放して8年間にわたる自治を行う山城国一揆が起きました。

1488年、加賀国では一向宗(浄土真宗)本願寺派の一揆が守護の富樫正親を打倒し、以後100年間にわたって加賀の自治を行うこととなり、「百姓ノ持チタル国」と形容されました。

1493年4月には「明応の政変」が発生し、日野富子と共に細川政元が将軍の擁立と廃立を図る事件が起こりました。

1495年、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が小田原城を奪取し、その影響が広がりました。

翌年12月23日には知仁(ともひと)親王が誕生しました。

1500年9月29日に後土御門天皇が59歳で崩御しました。
葬儀の費用もなく、天皇の遺体は40日もの間、御所に置かれたままでした。

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御土御門の御世、15世紀も終わりに近づいたころ、世界は大きな変革の風に包まれていました。

そのころ、東アジアでは李氏朝鮮が『経国大典』の完成により、儒教を国家運営の基本法として成文化していました。儒教の理念に基づいた統治が国の基盤を固め、李氏朝鮮は安定した政治を続けていました。

一方、西の果て、ヨーロッパでは大航海時代が始まっていました。
ポルトガルの冒険家バルトロメウ・ディアスは、喜望峰を発見しました。
この航海により、インドへの海路が確認され、彼は喜び勇んでリスボンへ帰還しました。ポルトガル王ジョアン2世は、この新しい発見に「喜望峰」と名付けました。

さらに、スペイン人はグラナダのアルハンブラ宮殿を陥落させ、イベリア半島を再征服(レコンキスタ)しました。このレコンキスタは、774年の長い戦いを経てイスラム勢力をイベリア半島から追い出し、キリスト教徒の支配を確立したのです。この偉業は、後に続くグローバリズムの始まりとされます。

そのころ、コロンブスはスペインの支援を受け、二ヶ月の航海の末にアメリカ大陸に到達しました。彼の発見はヨーロッパに新たな大地を開きました。

また、この年にはブラジルをポルトガル領とし、アメリカ大陸の残りをスペイン領とする「トルデシリャス条約」が結ばれました。この条約により、ポルトガルとスペインは世界を二分して支配することを決めました。

さらに、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマはインドへの航海を開始しました。彼の冒険は困難を極めましたが、ついにインドに到着しました。そこで彼は、欧州では見たことのないインド産の綿製品(キャラコ)を目の当たりにしました。
ガマはこれを契機に、軍事力を背景に交易を強制する新しい欧州の交易スタイルを確立しました。これが後に帝国主義へと発展していくきっかけとなりました。

こうして、東と西、それぞれの地で歴史的な出来事が同時に進行していたのです。世の中は大きく動き始め、新たな時代への扉が開かれようとしていました。

●応仁の乱は将軍家と管領家の跡継ぎ争いが絡み合い、そこに細川勝元と山名持豊の対立が表面化すると勃発しました。
応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)の10年間続きました。結果、荘園は崩壊し、将軍の支配領域は山城国一国となりました。

102 後柏原天皇

1500年10月25日、勝仁(かつひと)親王が践祚し、第104代・後柏原天皇として即位しました。後柏原天皇の父は後土御門天皇、母は庭田朝子(あさこ)です。

1502年6月には11代将軍・足利義澄(よしずみ)が参議・中将昇任のために朝廷に献金し、天皇の即位の礼の費用に充てることを検討しましたが、管領・細川政元が反対しました。

1517年5月29日には方仁(みちひと)親王が誕生しました。

1521年3月22日、幕府や本願寺9世・実如の献金を合わせることで、即位から22年目にしてようやく後柏原天皇は即位の礼を執り行うことができました。

1525年には疱瘡が大流行し、後柏原天皇は自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納しました。

1526年4月7日、後柏原天皇は63歳で崩御しました。

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後柏原天皇の御世、16世紀前半、李氏朝鮮で中宗(ちゅんじょん)が即位すると、「訓民正音」の公式の場での使用が禁止されました。これにより、訓民正音は李朝の公式文書から姿を消し、女性を中心に細々と使われるようになりました。

同じ時期、スペイン軍はメキシコに上陸し、アステカの首都テノチティトランを滅ぼしました。
また、ポルトガル人のマゼランがスペイン船5隻を率いてセビリア港を出発し、世界周航を目指しました。
この頃、スペインはローマ教皇アレクサンデル6世にはたらきかけ、アメリカ大陸のほぼすべてをスペイン領とする布告を出させることに成功しました。

さらに、スペイン人のエルナン・コルテスによってアステカ帝国が滅ぼされました。

その後、マゼランの遠征隊が世界周航を達成しましたが、スペインに帰国したのはフアン・セバスティアン・エルカーノ率いる1隻のみで、マゼラン自身はフィリピンで亡くなりました。

●朝廷の財政は逼迫しており即位の礼をあげるまで、践祚後22年間待たなくてはなりませんでした。

103 後奈良天皇

1526年4月29日、知仁(ともひと)親王が践祚し、第105代・後奈良天皇として即位しました。後奈良天皇は後柏原天皇の第二皇子で、母は勧修寺藤子(ふじこ)です。

1530年、大友義鑑(よしあき)の嫡男、塩法師丸(しおほうしまる:大友宗麟)が豊後府内に誕生しました。

1534年、この年には織田信長(幼小名・奇妙丸、幼名・吉法師)が生まれました。

1535年2月26日、後奈良天皇は全国から寄付金を募り、紫宸殿にて即位式を行いました。即位式の費用を賄うため、後奈良天皇は宸筆(天子の直筆)を売るなどして収入を得る工夫を凝らしました。

1537年、豊臣秀吉(幼名・日吉丸)が生まれました。

1539年、塩法師丸は12代将軍足利義晴から偏諱(へんき:一字を与えられること)を受けて、大友義鎮(よししげ)を名乗ることになりました。

1542年、この年、シャムから3人のポルトガル人が脱走しました。

1543年8月25日、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝来しました。この出来事は、日本の戦国時代に大きな影響を与えることとなります。
同じ年、幼名・日吉丸は寺に預けられました。

1546年織田信長は元服して三郎信長を名乗りました。

1549年、三好長慶が細川晴元を京から放逐し、実質的な政権を握るようになりました。
7月にはスペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を日本に伝えました。
同年、信長は16歳で斎藤道三の娘、濃姫を娶りました。

1550年2月には、豊後で「二階崩れの変」が起き、大友義鎮(よししげ)が21代当主となりました。義鎮(宗麟)は叔父の菊池義武を攻め、筑後と肥後の反乱を平定しました。
この時、大友義鎮は21歳、大内義隆は44歳、毛利元就は54歳、島津貴久は37歳、竜造寺孝信は22歳、織田信長は17歳、武田信玄は30歳、上杉謙信は21歳でした。

1551年7月7日、ポルトガル船が豊後国、沖の浜(大分市勢家町)に入港しました。
この船には、ゴアの外科医でユダヤ系ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダ(27歳)が乗船していました。
同年9月10日、フランシスコ・ザビエル(46歳)が周防から豊後国沖の浜に到着し、大友義鎮に迎えられ、その保護の下で宣教活動を行いました。

1552年、織田信長の父、織田信秀が死去し、信長は家督を相続しました。信長は若きながらも、そのカリスマ性と決断力で家をまとめ、新たな時代を切り開く準備を進めていきました。
同年12月3日、フランシスコ・ザビエルは中国の上川島(サンショアン島)で他界しました。ザビエルの死は、彼の熱心な宣教活動の終焉を意味しましたが、その影響は日本のキリスト教信仰の発展に大きく寄与しました。

1553年閏1月、大友義鎮は一万田鑑相(あきすけ)を誅殺し、尾平鉱山(大分県豊後大野市)を直轄領にしました。これにより、大友氏の勢力はさらに強化されました。

1554年8月、大友義鎮は将軍足利義輝から肥前国守護職に補任するという御教書を得ました。このことで、大友氏の権威はさらに高まりました。
同年、織田信長は21歳にして清州城に移り、その支配を確立しました。
一方、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は17歳で信長に小物として仕えるようになりました。

1555年10月、ルイス・デ・アルメイダが再び周防(山口)から府内(大分)に入りました。

1556年、斎藤道三が長良川の戦いで死亡しました。
その一方で、明国の蔣洲(しょうしゅう)が倭寇禁圧要請のため豊後国府内に上陸し、大友義鎮はこれを受諾しました。
同年、義鎮は臼杵の丹生島城に本拠地を移しました。

9月5日、後奈良天皇が61歳で崩御しました。

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後奈良天皇の御世、サラゴサ条約が締結され、香料諸島の西側がポルトガル領、東側がスペイン領とされ、アジアにおける両国の植民地分界線の協定が締結されました。

そのころ、スペインの軍人フランシスコ・ピサロがカハマルカの戦いでインカ帝国を滅ぼしました。
また、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルによってイエズス会が創設されました。

1555年5月11日、倭寇の頭目である王直(おうちょく)が倭寇船70余艘を率いて朝鮮全羅道を襲撃し、二か月後には中国大陸に上陸して南京の大安徳門を焼きました。

1557年、ポルトガルは明国からマカオの港を借り受けました。10月には、王直が船山の岑港(しんこう)に入港し、1か月後に捕えられました。

このように、東アジアと南米の両方で重要な出来事が相次ぎ、世界の歴史に大きな影響を与えました。

●後奈良天皇の即位式が即位10年後に諸大名の支援で行われました。
天文9年6月、後奈良天皇は疫病の終息を願って自ら『般若心経』を金字で書写し、その奥書に次のような自省の言葉を記しました。
「今回の大疫病で多くの人々が亡くなってしまいました。民の父母として彼らを守るべき立場でありながら、自分の徳が足りないことを痛感しています。密かに金字で『般若心経』を書写し、これが人々にとって少しでも疫病の妙薬となることを切に願っています」
この写経は、大覚寺や醍醐寺、そして24か国の一宮に納められたと伝えられています。
天文14年8月には、伊勢の神宮への宣命で、皇室と民の復興を祈願すると同時に、大嘗祭を行えない理由について謝意を表明しました。
「大嘗祭を行わないのは怠慢ではなく、国力の衰退が原因です。現在、我が国では正しい道が行われず、聖賢有徳の人もいない状態で、利欲にとらわれた下剋上の風潮が盛んです。この状況では、神の加護を頼るしかなく、上下が和睦して民の豊穣を願うばかりです。」
このように、後奈良天皇は強い責任感を持ち、民の幸福を祈っていました。

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