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明治のはなし(あきつしま) 6

1872年(明治5年)、日本はさらに新しい時代へと進んでいた。

6月12日、新たな外交問題として「朝鮮問題」に関する会議が開かれた。
この会議で、太政大臣・三条実美は、「わが国の誠意に応えぬばかりか、驕慢と侮辱の態度を示す李朝を改めさせるには、居留民保護のために若干の陸軍と軍艦を送り、朝鮮が日本使節を送って談判すべし」という見解を表した。この発言をきっかけに、一気に「征韓論」が国内で高まった。明治政府内でも、西郷隆盛をはじめとする一部の勢力が、朝鮮に対する軍事行動を求める声を強めた。

 9月、政府は全国民に教育を普及させるべく「学制」を公布した。
これにより、日本の子どもたちは、誰もが学校に通い学ぶ権利を得た。これは西洋の教育制度を模倣しつつ、日本の社会に適応させたものであり、文部省が中心となって推進された。藩時代には一部の武士や僧侶しか受けることができなかった教育が、一般庶民にも開かれることで、日本の将来を担う人材が次第に育成される時代が到来したのである。学校の建設が急速に進められ、教師の養成も急務となり、政府はフランスなどから教育専門家を招聘して、カリキュラムの構築に取り組んだ。各地では、親たちが不安を抱えながらも、子どもたちを新たな時代の象徴である学校へ送り出していく様子が見られた。

10月14日、新橋と横浜の間で日本初の鉄道が開通した。
この鉄道は蒸気機関車が引く列車で、煙を上げながら東京湾岸を駆け抜けた。この日の開通式典には、政府の高官や外国の使節が集まり、近代国家への飛躍を象徴する一大イベントとして国中の注目を集めた。新橋と横浜の間をわずか数時間で結ぶ鉄道は、従来の街道を行き来していた馬車や人力車に比べて圧倒的に早く、都市間の移動や物資の輸送を一変させた。民衆の中には、鉄の道を走る巨大な機械に恐れを抱く者もいたが、その利便性が次第に認識され、鉄道は近代化の象徴となった。

同年、群馬県富岡に「官営富岡製糸場」が設立され、操業を開始した。
この製糸場は、西洋の最新技術を導入し、日本の絹産業を飛躍的に発展させる役割を担っていた。明治政府は、輸出産業として絹に注目し、世界市場での競争力を高めるために富岡製糸場を国営で運営することを決定した。ここで働く女性たちは「工女」と呼ばれ、厳しい労働環境に置かれながらも、明治日本の産業を支える重要な存在となっていく。彼女たちの手によって生み出された高品質の絹は、フランスやアメリカなどへ輸出され、富岡製糸場は日本の近代産業の礎を築く一方で、世界との経済的なつながりをさらに深めた。

同時期、政府は琉球王国を正式に日本の一部とするため、「琉球藩」を設置した。これにより、琉球は事実上、日本の藩制度に組み込まれた形となり、鹿児島県の管轄下に置かれることになった。しかし、琉球は依然として清国との関係を維持しており、その二重従属状態は、後の琉球処分へとつながる緊張の一因となった。日本の勢力が広がる中、琉球の住民たちは自らのアイデンティティをどこに見いだすべきか、複雑な思いを抱えた。

そして、12月2日、旧暦が終わりを告げ、新たに「グレゴリオ暦」が導入されることが決定された。
これにより、明治5年12月3日をもって新しい年となり、明治6年が始まることとなった。この暦の改正は、欧米諸国と足並みを揃え、国際社会での時間軸を共通化するための重要な一歩だった。

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