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明治のはなし(あきつしま) 8

1874年(明治7年)。

この年、日本国内では自由民権運動が本格的に始まった。明治政府は中央集権的な改革を進めていたが、その一方で各地の民衆や知識人の間には、政府に対して政治的な権利を要求する声が高まっていた。特に西郷隆盛らが政府を去った後、民衆の不満が顕在化し、議会を設立して国民に発言権を与えるべきだという主張が広がっていた。

こうした情勢の中で、明治政府はついに「漸次立憲政体樹立の詔」を発布した。これは、立憲政治に向けた一歩を踏み出す宣言であり、将来的に憲法を制定し、議会を設けるという意志を示すものだった。この動きは、自由民権運動を抑えるための妥協策であったが、同時に日本が近代国家としての道を歩み始める重要な転換点でもあった。

1874年、明治政府は台湾出兵を決定した。
これは、琉球船が台湾に漂着し、そこで住民に襲撃されて乗組員が殺害された事件をきっかけに、日本は清に責任を追及したが、清は「台湾は化外の地であり、清には責任はない」と返答した。この事件を受け、軍人や士族らから台湾への軍事介入が必要との意見が高まり、大久保利通は台湾出兵を決定した。

当時、琉球王国は日本と中国の双方に朝貢していたが、この事件を口実に、政府は琉球を正式に日本の一部として主張し、台湾に対して責任を追及する動きを見せた。

西郷隆盛の後任として軍事行動を指揮したのは、西郷の弟、西郷従道だった。日本軍は台湾南部に上陸し、現地の住民と交戦した。戦闘は短期間で終結し、日本は一部の地域を占領することに成功したが、この出兵は清国(中国)との対立を引き起こすこととなった。
最終的には清国との外交交渉を経て、日本は賠償金を得ることで事態を収束させたが、この出兵は日本が初めて海外に対して軍事力を行使した重要な出来事であった。

 一方で、朝鮮半島でも大きな変化が起きていた。李氏朝鮮の王宮では、国王高宗の正室、閔妃が宮廷内での影響力を強めていた。
1874年、閔妃は王子、李坧(り きん、後の純宗)を産んだ。純宗は李氏朝鮮王朝の最後の王となる人物であり、この誕生によって閔氏一族の政治的影響力が一層強まった。閔妃は才知に優れ、王宮内での派閥抗争を巧みに乗り越えながら、高宗を支える一方で、自身の一族である閔氏一族を権力の中心に据えることに成功した。

閔妃の勢道政治は、朝鮮の政治において重要な役割を果たしたが、同時に国内の混乱を助長することとなった。彼女の改革路線は、保守派の反発を招き、特に大院君(高宗の父)との対立が激化していた。朝鮮国内は、清国に依存する”事大派”と日本に接近し改革を進めようとする”改革派”の間で揺れ動いていた。

日本、台湾、そして朝鮮を舞台に繰り広げられたこれらの出来事は、単なる国内問題にとどまらず、日本の国際的な立場を大きく変えるものであった。日本は、自らの国土を守るだけでなく、海外にもその勢力を伸ばす姿勢を明確にし、近隣諸国に対する影響力を強めつつあった。

その一方で、国内では立憲政体への期待と自由民権運動の高まりが続いていた。国民は、単なる改革を超えて、自らが国の政治に参加できる時代を望んでいた。政府もまた、軍事的な成功や外交的な交渉の一方で、内政の安定と国民の声にどう応えるかという課題に直面していた。

新しい時代の幕開け 1874年の台湾出兵と漸次立憲政体樹立の詔は、国内外の情勢に大きな影響を与える出来事であり、明治政府が新しい時代に向けて進んでいく姿を示していた。征韓論を巡る議論や海外への進出、そして国内の政治改革に取り組む中で、日本は近代国家としての形を整えつつあった。

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