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あきつしま 15
76 平治の乱
平安時代末期、1159年の日本。後白河天皇と二条天皇が実権を巡って争う中、平清盛と源義朝という二人の武士が対立を深めていました。
保元の乱で得た権力を背景に、平清盛は勢力を拡大していましたが、その一方で、源義朝は不満を抱いていました。
朝廷内部でも、藤原信頼と信西(藤原通憲)との間で政治的な対立が激化していました。
1159年12月9日の冷たい朝、京は静寂に包まれていました。
藤原信頼と源義朝は、長い間計画していたクーデターを決行する日を迎えました。彼らは夜明け前に兵を動員し、後白河上皇と二条天皇の御所を急襲しました。
御所内は突然の襲撃により混乱に陥りました。後白河上皇と二条天皇は捕えられ、幽閉されました。信西は逃げ場を失い、自ら命を絶ちました。クーデターは成功し、信頼と義朝は京の支配を握りました。
しかし、この成功は短命でした。平清盛はこのクーデターの知らせを受け、迅速に反撃の準備を開始しました。清盛は二条天皇を六波羅邸に迎え入れ、朝廷内外の支持を集めました。清盛は、この行動を通じて正当な権威を保持し、信頼と義朝に対抗する強力な基盤を築きました。
清盛は自らの軍勢を動員し、クーデター勢力に対する反撃を開始しました。清盛は戦略的に重要な場所を押さえ、義朝らの動きを封じ込める作戦を立てました。戦闘は激しく繰り広げられました。清盛の軍勢は迅速かつ効率的に動き、次第に義朝らの軍を追い詰めていきました。
特に、義朝の兵が崩れ始めたことが戦局を決定的にしました。清盛の部隊は戦闘の技術と統率力で優位に立ち、義朝の勢力を圧倒しました。
藤原信頼は捕えられ、即座に処刑されました。
源義朝は敗走し、東国へ逃れようとしましたが、尾張国で裏切られて命を落としました。
義朝の嫡男、源頼朝も捕えられましたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、伊豆へ流されました。
この戦いで勝利を収めた平清盛は、政治的地位をさらに強化しました。清盛は1160年に太政大臣に任命され、武士として初めて公卿の地位に就きました。
これにより、平家は事実上の武家政権を確立し、清盛は日本の政治の中心に立つことになりました。
77 高倉天皇
1168年2月19日、8歳の憲仁親王が第80代・高倉天皇として即位しました。高倉天皇は後白河天皇の第七皇子であり、母は平清盛の妻・平時子の異母妹である平滋子です。
1169年12月23日、延暦寺の僧兵たちが、尾張国知行国守・藤原成親の配流を要求して強訴しました。後白河院は成親を擁護しましたが、平氏の協力が得られず、両者の対立が明らかになりました。
翌年の4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良へ向かいました。清盛もこれに合流し、翌日に共に受戒しました。その年の9月20日、後白河法皇は福原に赴き、宋の使節と会見しました。
1171年12月2日、平徳子(のりこ)が後白河法皇の猶子として入内しました。
1172年9月17日、宋から後白河法皇と清盛に供物が届けられ、送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記され、「頗(すこぶ)る奇怪」であると非難の声が上がりました。
1173年3月3日、左大臣・大炊御門経宗(つねむね)の計らいで返牒(へんちょう:返書)が出され、答進物が送られることになった、これを機に日宋貿易が本格化しました。宋銭が大量に流入し、日本の経済にも影響を与えました。
1174年3月16日、後白河法皇は妃の平滋子(しげこ)を伴い、安芸国の厳島神社へ参詣するため京を出発しました。途中、福原を経由し、3月26日に到着しました。この頃に、源義経は16歳で奥州へ下りました。
1176年7月8日、平滋子(建春門院)が薨去しました。
そして、7月17日には六条院が崩御しました。
1177年6月、東山鹿ヶ谷で平家打倒の謀議が行われました。これが後に「鹿ヶ谷の陰謀」として知られる事件です。
1178年5月24日、平時忠が高倉天皇に対して徳子の懐妊を伝えました。そして11月12日、高倉天皇の第一皇子が誕生しました。
12月9日、この皇子に親王宣旨が下り「言仁(ときひと)」と名付けられました。
1179年11月14日、平清盛が軍勢を率いて京を制圧し、後白河法皇を幽閉しました。これにより、後白河院政は停止されました。この事件を「治承三年の政変」と言います。
1180年2月21日、高倉天皇は僅か2歳の言仁(ときひと)親王に譲位しました。
78 安徳天皇
1180年2月21日、僅か3歳の言仁親王が高倉天皇から譲位を受けました。言仁親王は高倉天皇の第一皇子であり、母は平清盛の娘・徳子(後の建礼門院)です。この譲位は平家の権力を象徴するものでした。
同年4月、後白河法皇の第三皇子、以仁王が平家追討の令旨を発しました。この呼びかけにより、源氏と多くの武士たちが挙兵し、平家との戦いが本格化しました。
7月14日には尊成親王(後の後鳥羽天皇)が誕生しました。
8月17日には源頼朝が挙兵しました。頼朝は全国の源氏を結集し、平家討伐を目指しました。
10月20日の富士川の戦いでは、平家は頼朝軍に大敗を喫しました。
1181年1月14日、高倉院が崩御しました。
さらに閏2月4日には平清盛が64歳で死去しました。平家の強力な指導者を失ったことで、平家の勢力は大きく揺らぎました。
1183年5月11日、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦いで平維盛を破りました。これにより、平家は都を捨てて西へ逃れることを余儀なくされました。
7月25日、義仲は京に入りました。
7月28日には後白河法皇が平家追討の宣旨を発しました。
8月20日、後白河法皇は尊成親王を践祚させました。これにより、二人の天皇が擁立されました。
そして頼朝は東国の支配権を得ることとなりました。
1184年正月20日、源義経が木曾義仲を攻撃し、義仲は敗死しました。
2月7日には一ノ谷の戦いで平家が壊滅しました。
10月24日、後白河法皇は源義経の昇殿を許しました。
源頼朝は公文所(後に政所と改める)および問注所を開設し、鎌倉幕府の基盤を固めました。
1185年2月19日、源義経は屋島の戦いで平家を攻略しました。
3月24日、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。
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●安徳天皇はわずか3歳で即位しました。清盛が死去すると、平氏追討の声が高まりました。
平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へ逃れました。一方、後白河法皇は新たに後鳥羽天皇を即位させました。
こうして、日本史上初めて二人の天皇が同時に擁立される「一天両帝」の状況が生まれました。
壇ノ浦の戦いで平氏は源氏に敗れました。
戦いの最中、8歳の安徳天皇は入水、崩御しました。
79 後鳥羽天皇
1183年8月20日、尊成(たかひら/たかなり)親王が践祚し、後鳥羽天皇となりました。後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子であり、母は藤原北家出身の坊門信隆の娘・殖子(たねこ)です。
1184年7月28日には、三種の神器を欠いたまま即位式が行われました。
1185年4月25日、神璽と神鏡が戻りました。
11月28日には源頼朝が守護・地頭の任命を許可され、これが「文治の勅許」として知られます。守護には国の警備、地頭には年貢の取り立てと土地および百姓の管理が委ねられました。
1186年7月15日、近衛家と九条家が成立しました。
1187年2月13日、源義経が奥州にいるとの情報が頼朝から朝廷に伝えられました。
1189年の閏4月30日、頼朝の圧力を受けた奥州藤原氏の四代当主・藤原泰衡は義経を襲撃し、自害に追い込みました。
義経は31歳で命を落としました。
7月19日、頼朝は自ら奥州へ進軍し、9月には奥州藤原氏を滅ぼす「奥州合戦」を遂行しました。
1190年1月3日、後鳥羽天皇の元服の儀が剣璽を欠いたまま行われました。
11月7日には頼朝が千余騎の軍勢を率いて上洛し、かつての平家の本拠地である六波羅に新邸を構えました。
この時、頼朝は日本国総守護地頭に任命されました。
1192年3月13日、後白河法皇が66歳で崩御しました。
7月12日、源頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命され、ここに鎌倉幕府が成立しました。これにより、日本初の武家政権が誕生しました。
1195年11月1日、為仁親王が誕生しました。
1197年9月10日には守成親王が誕生しました。
1198年1月11日、後鳥羽天皇はわずか3歳の為仁親王に譲位しました。
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●三種の神器
寿永2年7月25日、木曾義仲が京に迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国に逃れました。
後白河法皇と公卿の間で、平家追討を行うべきか、安徳天皇と三種の神器を帰還させるかで意見が分かれました。この過程で、義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「践祚」問題が浮上していました。
8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と、安徳天皇に期待を賭けるかを九条兼実に勅問しました。
兼実は、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から新帝践祚に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答しました。ー『玉葉』寿永2年8月6日条
後白河法皇は、安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めました。
8月20日、後鳥羽天皇は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、その儀式は剣璽を除けば譲位の例に倣って実施されました。即位式も元暦元年7月28日に、神器のないままに実施されました。
安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年から平家滅亡の文治元年までの2年間は、在位期間が重複しました。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収されることがありませんでした。
文治3年9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて、捜索は事実上断念されました。以後も建久元年1月3日に行われた天皇の元服の儀も、神器が揃わないまま行われました。
承元4年の順徳天皇践祚に際して、すでに上皇になっていた後鳥羽天皇は、奇しくも三種の神器が京から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなすこととしました。だが、後鳥羽天皇はその2年後の建暦2年になって、検非違使であった藤原秀能を西国に派遣して宝剣探索にあたらせました。
後鳥羽院は刀を打つことを好み、自らも焼刃を入れてそれに十六弁の菊紋を毛彫りしました。これを「御所焼」「菊御作」などと呼びます。皇室の菊紋の始まりです。
後鳥羽院の財源は長講堂領、八条院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にありました。しかし、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽院やその近臣と紛争を起こすようになりました。
80 土御門天皇
1197年1月11日、3歳の為仁(ためひと)親王が第83代・土御門天皇として即位しました。土御門天皇は後鳥羽院の子であり、母は源在子(ありこ)です。
1199年1月13日に源頼朝が落馬により死去します。
頼朝の死は『吾妻鏡』に記録されています。頼朝の死後、北条時政による御家人政治が行われました。
1203年、源頼家(鎌倉幕府第2代将軍:鎌倉殿)は北条時政によって幽閉されました。頼家は将軍としての権威を持っていましたが、時政の計略によりその地位を失いました。
1204年7月18日、23歳の源頼家は入浴中に殺害されました。
1210年11月25日、土御門天皇は在位13年で、14歳の守成親王に譲位しました。
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土御門天皇の御世、南宋の儒学者、朱熹(しゅき:朱子)が71歳で亡くなりました。
同じころ、テムジンがモンゴル高原を支配し、でテムジンが44歳になったときハンに推戴され、チンギス・ハンとなりました。
●土御門天皇は承久の乱のおり何も関与していなかったけど自ら申し出て土佐国に配流されました。
81 順徳天皇
11月25日、14歳の守成(もりひら)親王が第84代・順徳天皇として即位しました。順徳天皇の父は後鳥羽天皇、母は藤原重子(しげこ)です。
1211年、順徳天皇は『禁秘抄』を著します。
翌年の2月18日には、茂仁(とよひと)親王が生まれました。
1213年、北条義時が幕府の実権を掌握します。
1218年10月10日には、懐成(かねなり)親王が生まれました。
1219年1月27日、源実朝は鶴岡八幡宮の前で、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、28歳で命を落としました。
これにより、鎌倉殿の政務は頼朝の正室である北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなりました。
1221年4月20日、順徳天皇は討幕に備えるために、子の懐成親王に譲位しました。
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順徳天皇の御世、イギリスでは、大憲章(マグナ=カルタ)が制定されました。これは「法による支配」を明文化したものです。
、、、これ以前に、聖徳太子は十七条の憲法を制定しました。。。
82 仲恭天皇
1221年4月20日、4歳の懐成(かねなり)親王が第85代・仲恭天皇として即位しました。仲恭天皇は順徳天皇の第三皇子で、母は中宮・立子(たつこ:東一条院、九条良経の娘)です。
5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時を追討する院宣を出し、「承久の変」を起こしました。これは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の勢力を削ごうとした大規模な戦いでした。
しかし、7月9日、承久の変は幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐に配流されることとなりました。同日、2歳の仲恭天皇は廃され、19歳の茂仁(とよひと)王が践祚しました。
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●懐成親王は践祚はしていましたが即位礼を行う前に承久の変によって皇位を78日で廃されました。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇となりました。
諡号、追号がされませんでしたが、明治三年七月(649年後)に「仲恭」の諡号が布告されました。