明治のはなし(あきつしま)15
1881年(明治14年)
秋も深まる10月12日、明治天皇は「国会開設の勅諭」を発し、ついに帝国議会の創設が確約された。政府の中でも慎重論が多かった中で、天皇の勅諭は民衆や志士たちにとって大きな一歩を示す出来事だった。これを契機に、自由民権運動がさらに力を増していく。
そんな中、自由な国会設立を目指す板垣退助は、同志たちとともに「自由党」を結成。板垣は「言論の自由を認められる議会を」という情熱に燃え、全国の支持者を結びつけようとしていた。一方で、大隈重信も「立憲改進党」を立ち上げ、彼の穏健で現実的な改革路線は、多くの商人や学者に支持されていった。
時を同じくして、日本から遠く離れたロシアでは、皇帝アレクサンドル2世が反政府テロの手によって殺害された。この暗殺は国中に衝撃をもたらし、息子のアレクサンドル3世が急遽皇位を継承することとなった。アレクサンドル3世は父とは違い、強硬な統治を支持していた。ロシアでは、次第に言論統制が強まり、国民の間にも不安と緊張が漂い始めていた。
日本にもこの知らせは瞬く間に伝わり、板垣や大隈の支持者たちは「外国の例を見よ」と、民意を反映する議会の重要性を強く訴えるようになった。彼らは、国民の力が軽んじられる国の未来がどうなるのかを考え、あくまで平和的な手段で国を動かしていく覚悟を深めたのだった。
板垣は「議会こそが日本を真に進歩させるもの」と信じており、農村や小都市を回り、支援者を増やしていった。彼が投げかける言葉は、自由と平等、そして国を思う強い情熱に満ちており、次第に人々の心を掴んでいった。また、大隈の理知的で穏やかな演説は、彼の支援者に「秩序と共に進む議会」の希望を抱かせた。