あきつしま 9
37 元明天皇
707年7月17日、阿閇皇女(あへのひめみこ)が第43代・元明天皇として即位しました。元明天皇は天智天皇の皇女で、母は蘇我姪娘(そがのめいのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂のむすめ)です。
その翌年の1月11日、武蔵国秩父より銅が献じられたことを受けて、和銅と改元されました。これに続き、8月10日には和同開珎が鋳造されました。
この頃、藤原不比等(ふじわらのふひと)が重用され、彼の影響力が増していきました。
翌年、白壁(しらかべ)王が生まれ、将来の皇位継承を見据えた新たな希望が生まれました。
710年3月10日、元明天皇は藤原京から平城京への遷都を決断し、奈良時代が幕を開けました。左大臣・石上麻呂(いそのかみのまろ)が藤原京の管理者となり、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者として国政を掌握しました。
712年、天武天皇からの勅令であった『古事記』が献上されました。天武天皇が稗田阿礼に誦習させ、元明天皇が太安万侶に筆録させたものであり、古代日本の歴史と伝統を記録する重要な文献となりました。
翌年には『風土記』の編纂と好字令(諸国郡郷名著好字令)が詔勅され、地方の地名や文化が記録されました。
714年1月20日には、氷高内親王に食封一千戸が与えられ、彼女の地位がさらに高まりました。
6月25日には、首皇子の元服が行われ、同日正式に立太子されました。
715年9月2日、元明天皇は自身の後継者として娘の氷高(ひだか)皇女に譲位し、即日即位しました。これにより、天智天皇の皇女である元明天皇から、天武天皇の孫である氷高皇女へと皇位が継承されました。
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元明天皇の御世には、いくつかの重要な出来事が世界各地で起こりました。
ウマイヤ朝イスラム帝国は西ゴート王国からイベリア半島を奪取し、その影響力を大きく広げました。
同じ頃に、唐の玄宗が即位し、その治世は712年から756年まで続きました。また、大祚栄は震国の国号を渤海(ぼっかい)に改めました。
38 藤原不比等
藤原不比等は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した政治家であり、日本の歴史に多大な影響を与えた人物です。不比等は、自身の努力と才能で藤原氏を権力の中枢に押し上げた波乱に満ちたものでした。その中で重要な役割を果たしたのが、不比等の妻である県犬養橘三千代でした。
藤原不比等は、藤原鎌足の次男として生まれました。父、鎌足は大化の改新で中臣鎌足として活躍し、天智天皇に仕え、藤原の姓を賜りました。鎌足の死後、不比等は持統天皇に仕え文武天皇の擁立に尽力しました。
不比等は冷静な判断力と優れた政治手腕を発揮し、元明天皇に徴用され次第にその影響力を強めていきました。
不比等がその才を最も発揮したのは、律令制度の整備です。不比等は大宝律令の制定に深く関与し、古代日本の法体系の確立に貢献しました。養老律令をはさむこの律令体制は、国の統治機構や民衆の生活に大きな影響を与え、明治憲法が発布されるまで続いていきました。
県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)は、美貌と知性を兼ね備えた女性で、朝廷でも一目置かれる存在でした。
不比等は三千代と結婚し、彼女の支えを受けながらさらに力を発揮しました。三千代は家庭内での支えだけでなく、政治的な助言者としても不比等に寄り添いました。
不比等の娘の宮子は文武天皇の后となり、その息子である聖武天皇は不比等と三千代の子である光明子を皇后にしたことで、藤原氏は蘇我氏に代わる外戚としての地位を確立しました。三千代の存在は、藤原家の繁栄と影響力の拡大に大いに寄与しました。
不比等はまた、政治だけでなく、宗教面でも影響力を発揮しました。彼は仏教を厚く保護し、国家の安定と繁栄を祈念するために、多くの寺院建立を奨励し、藤原氏の氏寺である興福寺は不比等が創建しました。
元明天皇の時代、不比等は藤原京から平城京への遷都を推進しました。
これにより、奈良時代が幕を開け、新たな政治・文化の中心地が形成されました。不比等はまた、古事記や風土記の編纂を支援し、日本の歴史と文化の記録を後世に伝える基盤を作りました。
また三千代の知性と教養は、宮廷内外で高く評価され、多くの女性たちの模範となりました。
藤原不比等は720年に没しましたが、彼の影響はその後も長く続きました。不比等の子孫たちは藤原摂関家として権力を握り続け、日本の歴史に多大な影響を与えました。
39 元正天皇
715年9月2日、氷高皇女が第44代・元正天皇として即位しました。氷高皇女の父は草壁皇子、母は元明天皇です。
元正天皇は、独身で即位した初めての女性天皇であり、歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われました。
717年、藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始めました。これにより、律令国家としての日本の基盤がさらに強化されることが期待されました。
また、第8回遣唐使として、阿部仲麻呂、吉備真備、玄昉、井真成(せいしんせい)らが派遣されました。阿部仲麻呂と井真成は唐で亡くなりました。仲麻呂は朝衡(ちょうこう)と改名して唐朝廷に仕えました。
718年、聖武天皇と藤原不比等の娘で初めて皇族以外から皇后となった光明子の間に阿倍内親王が生まれました。
720年、壬申の乱から48年後、『日本書紀』が完成し、全30巻と系図1巻が奏上されました。これにより、日本の歴史が正史として書かれ、後世に伝えられることとなりました。藤原不比等はこの年に病に倒れ、亡くなりました。
翌年5月、元明上皇が発病し、右大臣に任命された娘の夫である長屋王に後事を託しました。
12月7日、元明上皇は61歳で崩御しました。
723年、田地の不足を解消するために三世一身法が制定されましたが、これにより律令制は徐々に崩れ始めました。
また、7月6日には太朝臣安万侶が亡くなりました。
724年2月4日、元正天皇は24歳の首皇子に譲位しました。
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元正天皇の御世、高句麗人1,799人が武蔵国に移住し、高麗郡が設置されました。
その頃、イスラム帝国はイベリア半島の全域を征服し、これをアル・アンダルスと呼びました。この地域の南部はアンダルシアとして知られるようになり、イスラム文化が広範に浸透し、後のスペイン文化にも深い影響を与えました。
40 聖武天皇
724年2月4日に元正天皇は譲位の詔を発し、新たに即位する首皇子を「我子」と呼びました。首皇子は文武天皇の第一皇子であり、母は藤原宮子です。
同じ年、東北の陸奥国には大野東人(おおののあずまびと)によって多賀城が設置されました。
同年3月22日には辛巳事件が発生し、これを契機に長屋王と藤原四兄弟との政治的対立が表面化しました。辛巳事件とは、聖武天皇が生母の藤原宮子に与えた称号が詔によって撤回された事件です。
729年、ついに「長屋王の変:長屋王が基王を呪い殺したという噂」が起こり、藤原宇合らが長屋王らを襲い、長屋王は自害に追い込まれました。
これにより反対勢力がなくなり、藤原光明子(諱は安宿媛:あすかべひめ)は非皇族として初めて立后されました。その後、悲田院と施薬院を設置しました。
730年、和気広虫が生まれました。
733年、天武天皇の皇子である舎人親王の七男、大炊王(おおいおう)も誕生しました。
しかし、光明皇后の母である県犬養橘三千代が薨去しました。
また、第8回遣唐使が派遣されました。
同年に和気清麻呂が生まれました。
736年、葛城王は橘宿禰(すくね)諸兄と改名する。のちに左大臣まで進み勢力を誇り、吉備真備らが補佐をしました。
737年、天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟や朝廷の高官のほとんどが病死しました。急遽、長屋王の弟である鈴鹿王が知太政官事に任じられました。
同年、山部親王が生まれました。
738年1月13日、阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となりました。
このとき、光明皇后の異父兄である橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任命されました。
740年9月には、大宰府で「藤原広嗣の乱」が起こり、橘諸兄政権を構成する吉備真備や玄昉を除こうとする反乱が発生しました。しかし、大野東人によって鎮圧されました。
聖武天皇は、乱の最中の10月末に伊勢国や美濃国への行幸を始め、平城京に戻らないまま12月には恭仁京へ遷都を行いました。
この遷都の経過は『続日本紀』で「彷徨五年」と呼ばれています。
741年、国分寺・国分尼寺の建立の詔が出され、
743年、紫香楽宮では盧舎那仏造立の詔が発せられました。
聖武天皇が病に倒れると、元正上皇は改めて「我子」と呼びました。
また、この年には墾田永年私財法が制定され、公地公民の崩壊と荘園制ができる原因となりました。
744年、元正上皇は病気の聖武天皇の名代として難波京遷都の勅を発しました。
白壁王はこの年以後、阿倍内親王の異母妹である井上内親王を正妃に迎えました。
745年、聖武天皇は平城京に戻り、東大寺大仏の制作が始まりました。
翌年、第10回遣唐使の派遣が中止され、その翌年の秋には盧舎那仏の鋳造が開始されました。
748年4月21日、元正上皇は崩御しました。
この年、吉備藤野別真人清麻呂(和気清麻呂)は奈良へ仕丁(しちょう:雑用係)として出立しました。
749年7月2日、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、出家した初めての天皇となりました。以後、神仏習合が加速していきました。
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聖武天皇の御世、渤海は高斉徳を大使とする24人の使節団を日本に派遣しました。
41 孝謙天皇
天平勝宝元年(749年)の夏、7月2日に阿倍内親王32歳が第46代・孝謙天皇として即位しました。
即位に際し、光明皇太后が孝謙天皇の後見人となり、政治を補佐しました。光明皇太后の甥である藤原仲麻呂44歳の勢力が徐々に拡大し、朝廷内で重要な地位を占めるようになりました。
同年10月、盧舎那仏が完成し、東大寺は華厳宗の総本山として大いに栄えました。光明皇太后は、皇后宮職を紫微中台に改め、和気広虫が後宮に入り、女儒(にょじゅ)となりました。
天平勝宝4年(752年)の4月9日、孝謙天皇は東大寺大仏の開眼法要を行い、多くの人々が集まりました。
同年、藤原清河、大伴古麻呂、吉備真備が第11回遣唐使として唐へ派遣されました。
翌年、唐の高僧鑑真が日本に来日し、律宗を開きました。
756年5月2日に聖武上皇が崩御し、遺詔により新田部親王(天武天皇の皇子)の子である道祖王(ふなどおう)が皇太子に指名されました。この遺詔(ゆいしょう)に従い、道祖王は次期天皇として期待されました。
ところが、天平勝宝9年(757年)の3月、孝謙天皇は道祖王に皇太子としてふさわしくない行動があるとして彼を廃し、舎人親王の子である大炊王(おおいおう)を新たな皇太子に立てました。
その後、5月に橘奈良麻呂の変が起こりました。橘奈良麻呂は藤原仲麻呂を打倒しようと画策し、仲麻呂が擁立した大炊王の廃太子を計画しました。しかし、この企ては失敗に終わり、奈良麻呂は処罰されました。
翌年、8月1日、孝謙天皇は大炊王に譲位しました。
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孝謙天皇の御世、『旧唐書』「日本国伝」によると、玄宗皇帝の天保12年(753年)、日本は唐に朝貢しました。
42 淳仁天皇
758年8月1日、大炊王が第47代・淳仁天皇として即位しました。淳仁天皇の父は舎人親王で、母は当麻山背(たいまのやましろ)です。
翌年、白壁王は50歳にして従三位に叙せられました。
この年、渤海から使節が到来し、藤原仲麻呂による新羅征討の計画が立てられましたが、3年後に中止となりました。
この年、藤原仲麻呂は「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名を与えられ、「藤原宇合らが襲い」と称するようになりました。
同年、第12回遣唐使が派遣されました。
760年1月4日に恵美押勝(藤原仲麻呂)が太政大臣に任命されました。
その際、孝謙上皇がその旨を宣し、淳仁天皇が追認の形で任命しました。
7月16日に光明皇太后が崩御しました。
8月、淳仁天皇は小治田宮に移りました。
761年、孝謙上皇は保良宮(ほらのみや:近江国)に移り、ここで病に伏せるようになりました。
孝謙上皇を看病した弓削道鏡が寵愛されるようになり、これに対して淳仁天皇は仲麻呂の進言により諫めました。
この年、第13回遣唐使が派遣されました。
762年5月23日、淳仁天皇は平城宮に戻りましたが、孝謙上皇は保良宮で静養を続けました。
6月3日、孝謙上皇は自らが国家の大事である政務を執ると宣言し、法基尼と名乗りました。また、女儒の和気広虫も出家して法均尼と名乗りました。
この年、第14回遣唐使が派遣されました。
この頃、道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂の勢力争いが水面下で続いていました。
764年9月11日、孝謙上皇は淳仁天皇から鈴印(れいいん)を回収させました。
9月13日には藤原仲麻呂の乱が起こり、孝謙上皇は10月9日に淳仁天皇を廃位しました。これを「淡路廃帝」といいます。
同日、孝謙上皇は重祚し、称徳天皇として再び即位しました。
●大炊王は明治3年7月24日に、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られました。
明治6年には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀されました。