
最も理解できなかった小説
私がこれまで読んできて最も理解が難しいと感じたのは、カフカの『父の気がかり』という短編(カフカ作(頭木弘樹 編) 決定版カフカ短編集『父の気がかり』 新潮社 新潮文庫 2024年)だ。
この短編を知っている人なら「ああ、あれね」と表面的には納得できるであろう。ただし一口に「理解が難しい」といっても、その難しさにはいろいろな種類がある。私が過去に感じた難しさとはいかなるものだったのか、そして現在どう思っているのかについて時系列に沿って深堀をしていきたい。
私がこの作品を始めて読んだのは、高校生の時だった。なぜ読もうとしたのかというと、その前に読んだカフカの『変身』があまりにも不快だったからだ。
高校の校内紙かなにかで、夏の読書のおすすめ本のひとつに『変身』が挙げられていて、その紹介文がそそるものだったので夏休みに文庫本を買って読んでみた。当時私はSF好きで、筒井康隆などにも親しんでいたのでこういう非現実的なテーマにそそられたのだ。
しかし、あまりにも不快になって途中で読み進められなくなった。毒虫への変身は理解できる。ただ、毒虫になった主人公の行動があまりにも不快だ。家族に疎まれても反撃するわけでも、どこかにいくわけでもない。「早くなんとかしろよ」とイライラして、放り投げてしまった。
しかし本を途中でやめるのはどうにも気分が悪い。そこで口直しに、同じカフカの短編集に手を伸ばすことにした。これなら、不快な作品は飛ばして次に行けばよい。
そこで短編を読み進めていったのだが、『変身』ほどいやな作品に出あうこともなく、快調に読み進めていった。ただし『父の気がかり』に来た時、私の頭は真っ白になった。
第一『父の気がかり』とは何だ? 話者の父などどこにも出てこない。ここで「文脈を読む」と、おそらくは自分が父になったときのことを想像して子や孫のことを思案しているのだろう。ただ、当時はそんなことなどわからず「父ってだれ?」とただただ戸惑っていた。
そして、最大の謎はなんといってもオドラデクだ。この短編の出だしは、このオドラデクという言葉の意味を詮索しているが、結局結論がでないまま終わる。そこまではまだいい。
その後オドラデクが実際に存在していると述べられ、その様子が記述されると当時の私の頭には数多くの?マークが浮かんだ。「それは一見したところ、扁平な星形の糸巻のようにも見え、また事実、糸が巻きつけてあるようでもある」なんだこれは? 物体か?
かと思うと、話者の問いかけに返答をする。名前を聞かれて、「オドラデク」と答えているのだ。生物か? しかしこんな生物ありえないだろう。といって、話者の家にしか出てこないので宇宙人などでもないようだ。
では話者の幻想なのかもしれないと考えてみるが、どうしてもそうは思えない。なぜなら、「思っても詮ないことながら」以下で話者が非常にまともな考察をし、オドラデクの行く末を思案しているからだ。この部分、話者が精神に異常をきたしているとはどうしても思えない仕組みとなっている。
そして最後は「それにもかかわらず、彼がわたしより長生きするかもしれぬと想像すると、ほとんど悲しみに似た心地にひたされる」という感情の表明で終わる。まず「彼」とオドラデクを男性と判断しているのが不思議だ。そしてなぜ悲しみの感情を抱くのか? このような生物とも無生物ともしれない存在にこれだけ関心をいだけるのか?
こうして、当時の私はまったく理解できないまま『父の気がかり』を読み終えた。不快感ではない、まるで数学の難問を前にして手も足もでないような気持ちになったのだった。
最近新しい文庫版が出たので、なつかしくなってまた読んでみた。すると今度は、まったくどこにも違和感なく読むことができた。一体どこが変わったのか?
高校生のころの私は、あまりにも分析的、科学的だったのかもしれない。まずオドラデクが出てきたとき、生物なのか無生物なのか、幻想なのか実態なのかとまずはオドラデクを「分析」しようとした。だが、この作品はこのような分析的な文脈の読み方はすべて無駄になるように作られている。しゃべる糸巻きなど現実にはありえないし、理解もできないからだ。
もっと哲学的にいうと、オドラデクを「表象」することはできない。表象をドイツ語でverstellungというが、これは「前に立てる」が語源だろう。
つまり、自分とは無関係なものとして、オドラデクを対象として立てて理性的に科学的に分析する試みはすべて無効になってしまうように作られている。話者の分析の試みが全く水泡に帰しているのだから、読者には分析の手がかりすら与えられていない。
一方今回私は現象学的に、オドラデクをあるがままに読んだ。直感的に身体に語りかけてくる話者の言葉を受け止め、表象しようとするのではなくただ純粋に経験する。
するとどうだろう、オドラデクが寄り添ってきた。まるで水木しげるの漫画に出てくる妖怪のキャラクターのように、全く違和感なく存在を認めることができ愛着さえ湧いてきたのだ。
そして今では、話者がオドラデクの行く末を案じていたのもわかるような気がする。オドラデクが亡くなるまで見届けたい、それができないことを悲しんでいるのだろう。
このように考えに変化が生じたのは、おそらく高校生の頃から今までの人生経験のせいなのだろうが、もうひとつ考えられるのはこの短編が話者とオドラデクしか出てこないからだろう。
もしもこの短編中に話者の子供が出てきて、オドラデクを見て「あれはなに?」などと話者に言ったとしたらどうだろうか? その瞬間、あるがままに感じることができなくなりたちどころに分析してしまう。
このような客観性が生じないからこそ、この短編の文脈を現象学的に読むことができるのだ。そして今では自分もオドラデクに会いたいと思っている。