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アニエス・ヴァルダ 『5時から7時までのクレオ』タロットから始まる「運」
運の話である。
最初はタロットから。
たった2時間主人公女性クレオをカメラで追うだけ。そのシンプルさのなかに、アニエスヴァルダの映画作りのエッセンスがすべてこめられている。
しかも「運」の話がよく出てくる映画である。
映画の各所に「運」についての会話が散りばめられている。
アニエスヴァルダが意識化して俳優たちに語らせた「会話」だから、監督のなかにある「運」についての「考え」が出ているのだとも言える。
パリ左岸の美しい風景を舞台に、クレオにまつわる「運のやりとり」とその2時間のなかでの「出逢い」と「会話」が小刻みに分けられた章で描かれる。クレオに絡んでくる人物の名前が各章のタイトルに挿入される。
映画の作りとしても、時間の流れに沿った、非常に「自然」な映像で、アニエスのカメラワークのセンスの良さが光っている。
「運」というのは「単なる」「出逢い」のなかにあるものだ、とアニエスがカメラを回しながら言っているようにさえ思える。実際の普段のなかでのアニエスの友人(たとえばミシェルルグラン)をすっと映画のなかのピアニストとして使い、映画のなかにアニエスの「運」「出逢い」を忍びこませるから素敵だ。
そうやはり、記憶は間違っていなかった。
ゴダールもアンナカリーナも、この映画に「カメオ出演」させている。
いまここの時間からこの映画を振り返って観てみると、いちばんいい時代のゴダール、アンナカリーナ、そミシェルルグラン、そしてアニエスヴァルダがこの映画のなかにいる「奇跡」の映画なのだった。
主人公はシャンソン歌手のクレオ(女優コリーヌ。マルシャン、なんて素敵な女性なんだ。表情といいそのコケティッシュな魅力といいおしゃれのセンスといい、すばらしいすばらしい)。
クレオは自分が癌ではないかと不安なまま。
落ち着かないまま、タロット占いをしてもらいに占い師のところへ。
その占いシーンが出だしの、パートカラーのところ。
よく映画を観ていると、7時に病院でしてもらっていた精密検査の結果が出る日なのだということがわかってくる。家政婦が横からクレオの行動に、いろんな迷信やゲンかつぎの言葉をさしはさむ。
すこし元気をなくしたまま、中年の恋人(愛人?)にあたってしまう。ご機嫌とりにきた音楽家(ミシェルルグラン)や詩人の友人たちにもついついあたってしまう。
やがてクレオは開き直って、気分直しに、パリの街へ散歩。
パリの街がうつくしい。魅力的な映像だ。
街を彷徨い、人々の会話、雑踏の音、それらが映像の中に自然に入ってくる。美学校のヌードモデルをしている友人のドロテとパリの街をドライブ。
ひとりになりたくなって公園を散策しているところで、アルジェリアからの帰還兵アントワヌと出逢う。この彼が、会話がうまいし、「運」のはなし「縁」のはなし、節々に入れながら、クレオを楽しませてくれる。
バス(開放的な、なんていうんだろう、市電みたいなバスという表現がいちばん合うのかな)でのデート。いちばんすてきな映像だ。そこへ至る前に、「運」のはなしが会話のなかで交わされる。
ベンチで。
「ほら、僕らは泡の中にいます」「大丈夫ですか?」クレオを元気づける男。寄り添いながら
「きれいな指輪ですね」彼の軍服を真ん中に置いて会話。
「真珠と蛙の飾りよ」
「あなたと僕だ」とかれが口説く。
それから散歩。かれは軍服で。
「美しい夏を祝おう。今日は縁起のいい日ですよ」(家政婦から火曜日は不吉な日といわれていて、あたらしい服や帽子もダメと言われていた)(そこへかれは、縁起のいい日ですよ、という)(気分がよくなるクレオ)(クレオという名がクレオパトラの語源からきてるふうなことの会話がここで)
「フローラの日」「でもクレオが名前よ」
おばぁちゃんの話をアントワヌが。(アントワーヌとクレオパトラが暗に秘められている。)(名前の偶然という「運」)
「フロランスはイタリアだよ・・・ルネッサンス」
会話が素敵だ。アントワーヌとクレオは病院前の停留所でバスからおりて、それぞれの「運」の方向へと。
ふたりの別れ。(またどこかで逢うかも)
これから先はまた、「運」
きっと「逢う」はず。
病院の精密検査の結果は?さぁ、どう出たのだろう?
それよりここでこうやってふたりが素敵な時間をすごし、それぞれの人生のほんのすこしの時間の共有がこんなにすばらしい時間だった、というのを、アニエスヴルダが「表現」してくれる。
奇跡のような時間がこの映画に込められている。偶然の時間、パリを行きかうひとびとの日常も描かれている。
街角のカフェ時間。
他愛もない会話もみんなこの映画のなかを流れる時間のなかで撮影され収録されている。そのことが、そのシンプルな流れという奇跡こそが、この映画自体が持つ「運」なのだった。