あなたが「カーズ2」をスキになる魔法をかける記事
今だからこそ明かしますが、僕が最初に劇場で見たピクサー映画が「カーズ2」でした。ピアリのディズニーストアでワールドグランプリレーサーのみんなのミニカーを買ったり、自分だけのラウンドを考えたり、思い出がいっぱいです。
最初に断っておきますが、この作品はあまたのピクサー作品の中でもぶっちぎりで評判の悪い作品です。大人になって見返した時、それはより強く感じることがあります。なぜならば、それらはさまざまな評論にある「ただしい意見」のもとにあるからです。
「カーズ2」には、ピクサーらしい「プラスアルファ」がありません。ある人はオリジナルビデオのシリーズのようなストーリーだと言い、ある人は要素がごった煮でなにを伝えたいのかわからないとも言います。それらは全て正しいです。レースして、悪を暴いて、終わり。「その先に繋がる何か」が、ここにはありません。
それでも。僕がずっと大好きにし続ける理由があります。ここから先は、それについてのお話です。
異種格闘戦のありえなさ
カーズ2に登場する車のラインナップ、特にワールドグランプリのレーサーたちの“異種”格闘戦は、モータースポーツを深く知っているか否かで印象が大きく変わります。F1、WRC、ル・マン、ツーリングカー、そしてマックィーンのいるNASCAR。これらが一堂に会し、ターマックとグラベルのミックスで戦うあり得なさ。現実ではあり得なかった空想がここにあるとも思います。
特に東京ラウンドで、グラベルに苦戦するフランチェスコの描き方は今思い返しても衝撃的です。やっぱりそうだよな、というのといつかは克服するのかな、とも。「もしも」の余白が生まれることが、今でも何より嬉しいと。それはまるで「フラミンゴにヨーヨーを持たせたよう」に…
カーズ2の魅力の半分はだいたいここにあります。知れば知るほど気になって、知れば知るほど「うそのほんもの」にありえねー!となる。それは、イマジニアが紡いできたことそのものなのです。また、当時は公式サイトで登場するレーサーたちのバックストーリーが読めたりしました。「鈴鹿のチャンピオン」であるシュウ・トドロキや、あまりのシンデレラ具合にびっくりするリップ・クラッチゴンスキーなど、個性豊かな「物語」がスクリーンで見られるのは今でも嬉しいですね。
「気づく」物語
この映画のもう半分の魅力は「メーターが世界の広さに気づくこと」にあります。「マックィーンとの傷や凹みが宝物」だったマクロな世界で生きていたメーターが、パーティ会場やフィンたちとの冒険を通して、まわりの世界の厳しさと優しさに触れてゆく。空港を離れるまでの失態の描写がきついと言ったらそれまでなんですが、そのまわりをめぐりめぐって、最終的には「友情と、自らの居場所」を確認しあう。その素晴らしさが、劇中のメーターの回想と共に強烈なコントラストで駆け上がります。
実はカーズ2において、主に大きく成長したと思えるのはメーターだけと私は思っています。それも「これまでを確認しただけ」という前提つきです。フィルやサリー、そしてマックィーンでさえ、自らの魅力と弱点を内省しただけなのです。この映画には「ピクサー映画の骨子」である「変化と成長」が根本から抜け落ちています。だからこそ異質であり、だからこそ面白いのです。
“若者”の真の自立と繋がりを描いた前作で、そのほとんどは成長しきっています。その「道」をもう一度確認しあうというのが本作なんですが、絶妙なわかりづらさとの元にぼやかされてます。でも、今そのことに気づいたら、あなたはもうきっとこの物語に惹かれ始めた何よりの証拠ですよ。
「後ろ向き」に走ること
東京でマックィーンが「後ろに下がった」ことでフランチェスコに負け、フィンとホリーが「時計の歯車を戻す」ことで問題を解決するなど、今作は「後ろ向き」というワードが強く意味を持ちます。それはなぜかというと、テーマとして「過去を内省すること」というのが大きく関わっているからだと私は考えます。
メーターとケンカしたマックィーンは、トッポリーノおじさんの元で過去の行いを内省し、この記事の一番最後に触れることばに繋がります。この作品と時を同じくして発売されたゲームでも、「後ろ向き」というのは特に重要なファクターです。しかしながらそれは、未来に目を背けて走っているかのようにも思います。
そこで大事になってくるのが「Be yourself」という言葉。自分らしく。自分らしくあるからこそ、好きな道へ、好きな方向へ走っていける。だから後ろに向いているように見えても、先がわかるのだと。内省しても、変わっても、変わらず自分らしくあること。まるで内浦の彼女たちのようですね。
カーズの元という宣伝文句でお馴染みの「チョロQHGシリーズ」には、「Be yourself!」というオープニング曲が存在します。いい意味でチョロQらしからぬと言われる曲ですが、のちに続く言葉を考えれば、その意味がしっくりとくるでしょう。同じスタジオが作った、彼の言葉に。
あとがき
今日、この記事を書いたのは理由があります。この週末、その終わり方を巡って賛否が巻き起こった作品がありました。ブリッジとしてめちゃくちゃいいなーと思ったんですが、“そこ”でそのほかの「ただしいこえ」に「だれかのスキ」が掻き消された例をたくさん見たからこそ、必死でこの記事を書いています。
僕が「カーズ2」の評判で悩まなかったのは「ディズニー/ピクサー」という大看板があるからです。もし何かあっても次がある。その安心感は尋常ではないです。ただ、そこから離れて、その影響力の大きさを肌で感じたら?どれだけそれが好きでも、ひとたびの「失敗」で「次はない」と感じたら?
ここ最近、ずっと寒気がします。
それでも、だれかのスキによって繋いでゆく夢があります。だれかのいいねが、だれかの命を繋ぐことだってあるわけです。僕が「コンテンツ」という言葉をあまり使いたくない理由はここにあるのです。
3年前の自分にも伝えたいのですが、「スキは無敵」とは言いつつもそれには揺るがぬ「軸」が必要です。軸を持ったら、揺るぐことなく確信する「勇気」がいります。どうかスキをスキと言い続けられる、世界になれたら僕は嬉しいです。そうしたら、僕だってロケットで一緒に走れるようになるから。