俺の名前だけが愛称だった
友人が亡くなった、盲腸癌だった。
数少ない親友と呼べる仲間だ。
訃報は経営合宿が始まったばかりの朝イチに届き、動揺から私の話すことは終始グダグダであった。
会議の合間にもうひとりの親友と電話し、ようやく状況が掴めた。闘病してる間は誰にも病状を伝えなかったらしい。ただひとり、いま話している むかし3人組と呼ばれていた会話の主以外には。
だから寝耳に水であったのだ。
電話の向こうでそれを誰にも言わずにいたことを謝っていたが、アイツらしいやり方だと自然に受け止められた。過剰に関わられることが苦手なタイプなのだ。
葬儀には間に合わなかった。
私が出席しないと対外的に成り立たない行事があったからだ。
年度末に死ぬなバカ!
とは言え、奴も俺の葬儀には出られないわけだから おあいこである。
翌朝、新幹線で仙台に戻り彼の家に向かった。葬儀が終わり遺影だけが彼を偲ぶあかしとして目の前にあったが、昔ながらの真ん丸の顔で死んだ実感などわくわけもなく、涙のひとつも流れなかった。
奥様とは結婚前後、たまに飲み会に来たくらいの記憶しかない。そのくらい男仲間だけで遊んでいたのだ。
奥様は故人から弔問に訪れるだろうリストを手渡されていたが、その中の俺の名前だけが愛称で誰だったか思い出すのが大変だったらしい。
お互い若い頃の面影を探りつつ、少しづつ時を巻き戻していった。
リストに遺すくらいだから何か遺言でもあろうものだが、名前があるだけ。まったくアイツらしい、徹底して合理主義なのだ。
そのくらいだから覚悟は出来ていたらしく、水しか飲めなくなると医師から宣告された時も家族に「これから断食に入りま〜す」と笑いながら言ったらしい。あいからわず面白くない、ギャグは常に滑るやつだった。
それが最後だと思ったら愛想笑いくらいはしてやったのに。何も言わずに逝ったのは寂しい…。
でも、「俺の名前だけが愛称だった」それだけで十分な遺言かもしれない。そう思うと書きながら初めて泣けて来た。
おそらくリストの人は全て弔問に訪れたに違いない。来ないわけがない、そんな男だ。
イイ奴だった。
謎の愛称の男では申し訳ないので、立派に喪主を務めた学生の長男に名刺を渡した。「何かあったら連絡してきなさい」と。
後見人くらいならいつでもなる。
リストに愛称で遺したのも、1日遅れて来ざるを得なくしたのも、こういうことだろう、友よ。
平成の思い出は友の死で幕をおろしはじめ、春なのに仙台は雪だった。
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