【洋楽雑考# 23】 〜 グランジという躁鬱〜Nirvana
皆元気? 洋楽聴いてる?
8月30日に13年ぶり(あのね…)のニュー・アルバム「Fear Inoculum」をリリースするTool 。
アルバムに先駆けてタイトル・トラック、及び過去作品のストリーミング、配信を遂に開始したのだが、全米が大騒ぎになっている。
8月17日付Billboard誌では、アルバム・チャート20位内に全アルバムがランクイン。
Rock Digital Song Sales Chartにおいては、1位から10位を独占。
Artist 100 チャートも初登場1位を獲得。
ちなみにシングル扱いになっているタイトル・トラックは“チャート史上最も長い楽曲”(10分20秒)という“いかにもな”記録もゲットした。
不気味な音楽性が逆に不思議な中毒性を持つ彼らなんだが、ともあれ新作がようやく、ようやく…涙。
で、今回は、西海岸オルタナティヴという意味ではToolとも関連性のあるバンドをピックアップしてみよう。
そう、Nirvanaである。
まず、この際しっかり書いておきたいのだが、このバンドの主役であるKurt Cobainの日本語表記、“コバーン”じゃなくて、“コベイン”だよね。
俳優のJames Coburnとかと綴りが似てるせいもあるのか、ずっとコバーン。そろそろ直したいもんだ。
で、そのコベイン(G/Vo)とベースのクリス・ノヴォセリック(Krist Novoselic:この人の名前も興味深い。
以前はChrisと英語風に綴っていたのだが、1993年に母国クロアチアを訪れたのを機会にKristに変名している。
ファミリー・ネームも東欧風に読めばノヴォセリッチか…)が出会うのは2人がまだ高校生の頃。
今ではグランジの聖地とされるワシントン州アバディーンでの出来事だ。
しかし、実際にバンドがスタートするまでには3年を要した。
当時コベインは、現在も西海岸オルタナティヴのボスとして活動を続けるMelvinsのデイル・クローヴァーらとFecal Matter というバンドで活動しており(バズ・オズボーンも後期メンバー)、
そのデモをノヴォセリックにも渡してあったのだが、彼が実際にテープを聴くまでに相当の時間がかかったようで…さすが西海岸。
ともあれ、その音楽性に共鳴した彼とコベインは活動を共にするようになる。
Nirvanaというバンド・ネームについては、“パンク・バンドによくあるような品のない名前は避けたかった。
美しさ、可愛らしさを感じさせるものにしたかった”とのこと。
Nirvana名義の最初のデモは1988年1月のレコーディングだが、ドラムを担当しているのはクローヴァー。
その前後に数名のドラマーがバンドに出入りしてはいたのだが、リハーサル現場が遠いとか、二日酔いがひどくて練習に来られないなどの、こちらもかなり西海岸な理由でバンドに定着することはなかった。
地元紙にドラマー募集の広告を出すなどするも満足な結果は得られず。
最終的にドラマーの座を射止めたのは知人に紹介されたチャド・チャニングだった。
チャニングを獲得してからバンドの動きは一気に活性化し、88年11月にはシングル「Love Buzz」(Shocking Blueのカヴァー、良いセンスだ…)をシアトル・ベースのインディ・レーベルSub Popからリリース。
当時数多くのバンドの受け皿となっていた同レーベルの意義は非常に大きい。
翌月にはデビュー・アルバムの制作スタート。
当時、バンドが影響されていたのは80年代アメリカン・パンク、70年代ハード・ロック、また同胞でもあるMelvinsやMudhoneyだったのだが、それらは「Bleach」(1989年6月リリース)に色濃く現れている。
同アルバムのクレジットにはセカンド・ギター・プレイヤーとしてジェイソン・エヴァーマンの名前があり、カヴァーにも写っているが、実際に彼が演奏しているパートはない。
“$606.17”とアートワークに表記されたレコーディング費用を彼が請け負っていることへのお礼の気持ちだったらしい。
実際、エヴァーマンはその後のツアーにも同行したのだが、程なくして人間関係のもつれでクビに。
バンドはツアーをキャンセルせざるを得なくなった。
89年12月「Blew」EPリリース。
「Bleach」は十分なプロモーションを受けていたとは言いづらい状況だったようで、コベインが不満を抱く部分もあったようだが、それでも40,000枚を超えるセールスを記録。
アップダウンを繰り返しながらも、徐々に活動が軌道に乗りつつあった当時のインタヴューで「バンド結成時の曲はどれも怒りに満ちていたのに、最近はよりポップに、そして僕はどんどん幸せな気持ちになっている。
最近は人間関係の対立、他者への感情的な事柄を曲の題材にしている」と意外な心境を語っている。
翌1990年4月には、プロデューサー、ブッチ・ヴィグと新作の制作を開始。
しかし、同時期にチャニングとの対立が表面化。
彼のドラミングに不満な2人、そしてチャニングは自分がプロダクションに十分に携われていないというフラストレーションを抱えていた。
結局当時のセッションはリリースされず、バンドはこれをメジャー契約のためのデモ・テープとして使うことに。
同時期にチャニングは脱退、7月にバンドはMudhoneyのドラマー、ダン・ピーターズの手を借り、「Sliver」EPをレコーディング。
同EPは9月リリースだったのだが、同時期にバンドに運命的な出会いが。
Melvinsのバズ・オズボーンから紹介されたワシントンD.C.のハードコア・バンドScreamのメンバー、デイヴ・グロールと意気投合、ドラマーとして迎え入れる。
“ようやく落ち着いた”とはノヴォセリックの言葉。
そして、数社のメジャー・レーベルがバンドにコンタクトを取り、契約の話が具現化。
最終的にバンドが選んだのはGeffen傘下のDGCだった。
これにはSonic Youth のキム・ゴードンの助言があったとされる。
DGCとの契約後、レーベルからアルバムのプロデューサーとして様々な名前が挙がったのだが、バンドはヴィグとのセッション継続を希望。
実際、推薦されたプロデューサーの中にはパーセンテージを要求する人間もいたらしい。
また、インディ出身の彼らが既にレーベルの出方を警戒していたという見方もある。
グロールを迎え、心機一転。メジャー・デビュー・アルバムのレコーディングは1991年5月、6月カリフォルニアで行われた。
費用は65,000ドル。
スタジオに向かうガソリン代を捻出するため、バンドはギグを行い、そこで初めて「Smells Like Teen Spirit」が演奏された。
入念なリハーサル、プリ・プロダクションのおかげもあり、スタジオ・セッションは順調に進んでいったのだが、
ヴィグによればコベインには気分の波があったらしく、“最初の1時間は最高なのに、その後1時間は部屋の角に腰掛けて押し黙っていた”ようだ。
ミックスの段階になり、バンド、ヴィグ両者とも、このままの状態ではアルバムは失敗作になると感じ始め、DGC側から数名のミキサー候補が送られる。
その中からバンドが選んだのがアンディ・ウォラスだった。
当時彼はSlayer の「Seasons in the Abyss」を手掛けており、その手腕を買われての起用であった。
ウォラスはバンドの期待に応えるべく、1日に1曲のペースでミックスを行い、アルバムは完成!かくして、
1991年9月24日、アルバム「Nevermind」がリリースされる。
DGCは当初レーベルメイトで音楽スタイル的に近い(と彼らが考えた)Sonic Youthをモデルケースとしてマーケティングを行った(最終売上予測25万枚)。
5万枚弱の初回プレスの半数近くはアメリカ北西部に配布されたのだが、レーベル側の予想を上回る凄まじいペースで売れ始め、遂には他のアルバムの生産がストップされ、「Nevermind」のみがプレスされる状態に。
初回順位こそ144位だったBillboardアルバム・チャートも11月にユーロ・ツアーがスタートするまでにはTop40入り(35位)を果たす。
そしてやはり決定打となったのはPVだった。
MTVでプレミアOAされた「Smells like Teen Spirit」はその後、文字通り昼夜を問わず流れっぱなしとなり、同年末にはアルバムは1週あたり40万枚という桁外れのセールスを記録。
1992年1月に「Nevermind」はBillboard1位を獲得、マイケル・ジャクソンの「Dangerous」を蹴落すという偉業だった。
「Smells Like Teen Spirit」も同シングル・チャートを6位まで上昇。。
グランジ・ムーヴメントの先駆者の一つ、Soundgardenがメジャー、A&Mから「Louder than Love」をリリースして2年余り。
そこからシーンは“業界全体躁状態”へと突き進む。
まさに“グランジ・バンド大放出祭”の様相に。しかし、どこか空虚なまま…
ちなみに、「Nevermind」には「Endless Nameless」というヒドゥン・トラックが収録されているのだが、初回盤には欠けている。
アルバムのマスタリングを担当したのはハウィー・ウェインバーグだが、バンド、アンディ・ウォラスらがスタジオに到着した際には殆どの作業が終了しており、口頭で出されたその指示をうっかり忘れていたというのが真相らしい。
誰一人として想定していなかった怖いくらいの大成功の陰で、コベインはダウナーな方向に向かっていく。
あれだけ満足していたはずの「Nevermind」の仕上がりにも“今聴くと恥ずかしい。
パンク・ロックのアルバムというよりMotley Crueみたいだ”などと不平を漏らし始める。
また、バンドの印税配分についても文句を付け、他メンバーとの溝がこの時期から深まって行く(最終的には75%がコベインに渡るように調整された)。
そんな中でDGCはバンドに92年末までにニュー・アルバムをリリースして欲しいと要求するが、そんな状況で到底叶うはずもなく… と言いながらも、既にコベインの頭には次作で誰と作業するかというアイディアは芽生えており、
「Bleach」を手掛けたジャック・エンディノ、そしてUSインディ・シーンで確固たる地位を築きつつあったスティーヴ・アルビニなどに興味を示していた。
1993年2月にニュー・アルバムの作業開始(ミネソタ州キャノン・フォール)、プロデューサーにはアルビニが選ばれた。
DGC、及びマネージメントのGold Mountainら、いわゆる“外野の声”を極端に嫌ったアルビニは、バンドにスタジオ料金を自分たちで負担してアルバム制作についてのイニシアティヴを完全に掌握するよう助言、バンドもそれを受け入れる。
真冬のミネソタでのセッション、ノヴォセリックは“雪で外出もできない。
収容所みたいな環境でとにかく作業するだけだった”と語っている。
メンバー3人、アルビニ、テクニシャンのボブ・ウェストン以外、第3者の出入りはほぼなし。
セッションはわずか6日で終了。危惧されていたコベインVSアルビニの対立もなく、その後アルビニは5日でミックスを仕上げる。
周囲が驚くほどのスピードでレコーディングは終了、マスタリング前のテープがやきもきするDGC、Gold Mountainの幹部らに届けられた。
だが、彼らの評価は惨憺たるものだったようで、レコーディングのやり直しを望む声さえもあったらしい。
しかし、バンドと親しい人々の好意的な意見を尊重し、4月にはコベインもアルバムをそのままリリースすることに一旦は同意する。
しかし、今度はバンド内からも“ベース、歌詞が聞こえない”という不満が出始める。
コベイン自身も“こんなことは普通ないんだけど、1週間アルバムを聞こうという気にならないんだ。感情が感じられない。麻痺してしまっている”と発言。
アルバムのマスタリング(ボブ・ラドウィグ)で問題は解決したように思えたのだが、コベインが満足することはなかった。
最終的にアルバムに手を加える必要性を感じたバンドは、R.E.M.らとの仕事で有名なスコット・リットと作業を継続し、アンディ・ウォラスにリミックスを依頼するプランを立てるが、
契約違反を理由にアルビニがマスターを手放すことを拒否するという事態に。
ノヴォセリックの電話での説得でようやく態度を軟化させたアルビニはリットにマスターを預け、
彼は「Heart-Shaped Box」、「All Apologies」の2曲をアルバム発表前に、発表直後には「Pennyroyal Tea」(Walmart、Kmartセンサーシップ対策用)をリミックスしている。
そして、1993年9月「In Utero」とタイトルされたニュー・アルバムがようやく発売された。
当初コベインはアルバムを「I Hate Myself and I Want to Die」としたかったようだが、ノヴォセリックに“訴訟になったらマズい”と説得され、最終的に妻であるコートニー・ラヴの詩を引用した。
Billboardアルバム・チャートでは前評判通り1位を獲得。
しかし、上述のようにWalmart、Kmartといった大手スーパー・チェーンは発売を拒否、DGCは翌年3月にアートワークを変更し、
「Pennyroyal Tea」のリミックスを収録した別ヴァージョンのアルバムを発売せざるを得なかった。
また、収録曲「Rape Me」は「Waif Me」とクレジットされている。
93年10月、バンドは2年ぶりとなる全米ツアーを敢行。
翌年2月からは6週間のヨーロッパ・ツアーに出るのだが、コベインが3月初旬にローマで薬物中毒を起こし、残りの日程をキャンセル、彼はそのままリハビリ施設への入所を宣言するのだが、直後に失踪。
そして1994年4月8日、シアトルの自宅でコベインの遺体が発見される。
ショットガンによる自殺だった。
その後のグランジというジャンルの短命さは述べるまでもあるまい。
Soundgardenなどは、例外的にその呪縛を逃れ、素晴らしい音楽を作り続けていたが、シンガーのクリス・コーネルはやはりその後自ら命を絶つことに(2017年5月17日)。
あの喧騒は一体何だったのだろうか?
また、自分の周囲が皆すべて浮かれ飛ぶような状況の陰で、コベインだけがなぜあそこまで追い込まれていったのか。
あの時期と上手く折り合いをつけてさえいれば…
その後、ノヴォセリックは政治活動に重きをおくようになり、グロールはご存知のようにFoo Fightersを結成、精力的に活動を続けている。
Nirvanaは日本語訳すると“涅槃”、“安息の境地”、コベイン、どのあたりだろう、今…安らかに。
では、また次回に!
※本コラムは、2019年8月21日の記事を転載しております。
■Nirvana ユニバーサル ミュージック ジャパン公式サイト
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