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話すこと、聞くこと、問うこと

先月、「朗読劇を作・演出、プロデュースする」という(小劇場ではありますが自分にとっては)とてつもなくでかい規模の夢が実現しました。
感無量、本当に各方面へ感謝しっぱなし、放心状態……。
と余韻に浸る幸せは物理的には翌日くらいまで。
その後はあっという間に日常のモードへと引き戻され(笑)。

その数日後、大きな’現場’があったのです。
複数企業合同のワークショップのファシリテーション。
設計から入っているので、実際には朗読劇公演前から企画準備は進んでいたのですが、終演からほどなくのタイミングでワークショップ当日を迎えました。

場所は虎ノ門エリアの某ビル。
ワークショップの主催企業からファシリテーションのご依頼をいただきました。
参加者は全て別の企業の方々で、戦略企画部だったりイノベーション本部だったり、企業の今後を考える部署の方々を中心に、未来洞察系がテーマのワークショップ。
その直前の8月前半に、別の企業からの依頼でほぼ同一テーマと思われるあるキーワードについてのデスクリサーチとそこから得られる示唆をレポートにまとめる仕事をしていたので、
「なんという偶然!もうある程度テーマについてのジェネラルデータが頭に入ってるでー!」
と、ウキウキとお仕事を引き受けられたのでした。
(未来洞察関連って、なかなかしんどいですよね。雲をつかむような話というか、それぞれがスコープしているところが同じようで違ったり、と議論の行き着く先がかなり不透明で、進行する側としても釈然としない参加者の顔を見るのは胃が痛いです、笑)

ここのところ、一般生活者や有識者を対象としてグループインタビュー、デプスインタビューのモデレーターをすることのほうが圧倒的に多かったので、ワークショップのファシリテーター役はすごく久しぶりで(コロナ禍以降、リアルイベントでは初だったかもしれません)、勘どころがなかなか取り戻せないかなとは思ったのですが、すぐにその「勘どころ」たちはやってきてくれて、とても楽しい2時間を作ることができたと思います。
(クライアントさんや参加者の方々が口々にそう言って下さったのでした)

ワークショップのファシリテーターをする際、私はみなさんの発表を聞きながら、ホワイトボードに書き取っていくことをよくします。
ファシリテーターそれぞれでさまざまなやり方があると思うのですが、私の場合はグループワークで話し合った結果を、発表者の発言を聴きながら可視化して共有しやすくしたい、と置けるものは置いていきます。
(記録係が別にいる場合もあったりしますが、それは記録のため。議論を活性化させる目的ではないのです)

そしてこの板書をやると、
「わかりやすく書き留めてくれたから、話を進めやすかった」
「各グループのアイデアが比較しやすかった」
とだいたい喜んでいただけます。
そして、板書しながら要所要所で問いを繰り出していくのですが、
「よく書きながらファシリテートもできるね」
とも言われます。

インタビューのモデレーションをしている時も、手元でものすごくメモを取る派です。
発話がなされている間はきちんと聴く。
聴きながら、一通り発言が終わったら、こことここについては今ひとつ不明瞭だった/もう少し掘り下げたい/別の角度で質問をしなくては…、みたいなことには、自分だけがわかるマークなど(要は書き殴っていて汚い笑)をつけていたりします。

聴きながら話しながらメモをとり、前後関係を整理し、腑分けする。
問いを立て、仮説と照合し、さらに問いを立て直す。
もう完全に整理し把握できたことはいったん傍に置き、次に問うべきことを組み立てる、抜け漏れがないかチェックする。
抜け漏れとは、まだ明らかにされていないこと/前後の整合性が不確かで、それが不確かだからこそ意味があるのか、単に語りの中で時制の勘違いが起きていただけなのか、明確化されるべきことたちであり、それらを積み残しのないように時間内にクリアしていく。
そういうことを、シームレスに(不自然な間もなく、問い詰めるようなトーンにもせず、対象者と旅をしているモードを崩すことなく)2時間なら2時間の中でやっていくのが当たり前となっているのですが、
「いったい頭の中はどういう構造になってんの?」
と時々聞かれたりします。
そう聞かれることが重なって初めて、
「これらを常に同時にやっているのは一般的ではないらしい」
と気づかされます。
もう何十年もこの仕事をしている=特殊な訓練をし続けている状態であり、そうやっていく中でより専門化・先鋭化してきたんだと思います。
そして意識せずとも「話す・聞く・問う」は常に構造的であるべきという前提に立ちがちです。
この前提、日常的にこの技能を使用している人間にとっての前提というだけで、一般的には「ごく特殊な/全くお門違い」という認識なのかもしれないと思ったりします。

それを実感せざるを得ないできごとがありました。

とある集いを前に、関連の情報をやりとりをするために友人数人でグループLINEがつくられました。
そして最初にある一人が置いた情報が、グループを作る前に個別に聞いていた情報とはだいぶずれがありました。
その後の段取りにも影響をあたえるずれだと思いましたが、他のメンバーでそれを指摘する人はいません。
「言いづらいのかも」と思いつつ、ずれの指摘とその修正のためにすべき提案コメントを置きました。
すると、情報を置いた本人がコメントを入れました。
ですがその内容は、情報の真偽には一切触れず、私の対応が事務的だ、感謝がない、人の気持ちがわからないのかといったものでした。
私は
「状況を整理したい、まず当初はどうだったか、今はこういう情報になっているがそれはなぜか、混乱しないようこうしたらどうか」
に終始し、先方は
「良し悪しではない。第一仕事ではない。他の人の気持ちがあなたにはわからない」
という対応に終始。

そうです、めっちゃ並行線、笑。

そして、私はコメントを控えていた他の人に個別に話を聞きました。
すると、
「総じて内容をふわっと聞いていた(ので何も気づかなかった)」
「何が起きていたかわからなかった(どちらの主張もよくわからない)」
「(自分が何かすべきとなったら)そのうち何かする必要がありそう」
と感じていたことがわかりました。
一般的には、この感じ方のほうが圧倒的に多いのでしょう。

なるほど。
普段使っているスタイルを、何ら制限をかけることなく使ってしまった……と感じました。

厳密すぎる。
スクエアすぎる。
腑分けしたがりすぎる。

「'話す・聞く・問う'は常に構造的であるべきという前提」
は存在しないのでしょう。
むしろ「構造的ではない」と逆ベクトルに重心を置くほうが、もめなくて済むことが多いはずと。

以前、こうも言われたことがあります。
「キミは言葉に敏感すぎる」
「ヒトはそんなに考えてしゃべってない」
「言葉に重きを置きがち/意味を持たせ過ぎ」

会話・対話が生成されたら、すぐその構造を俯瞰しようとする(というか無意識にそうなる)クセは、日常生活の中ではいいことばかりではないようです。
意識せずとも切り替える技がほしいです。








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