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’心に向き合う’とは? -ケアとセラピー-

この記事は、音声配信Stand.fmのチャンネルにて、2023年1月16日に配信した内容を記事化したものです。




こんにちは、ボイスラボのJidakです。

この番組はマーケティングリサーチャーで脚本を書いているJidakが、ヒト・モノ・コトを通じて聞こえてきたVOICE(メッセージ)をゆるくお伝えしていく番組です。

基本的に自分の気になったこと、興味が見えたこと、そしてそれをシェアすることで、どなたか何かの引っかかりとか何かのお役に立てればいいな、みたいなことを配信のコンテンツにしているので、ジャンルや内容はいろいろで、粒も揃わないんですけども。

今日は、「ケアとセラピーの違い」と、「それへの向き合い方・捉え方」ということですね。この違いを理解して、さて自分はどうしていこうか、というところのグルグルとした考えを配信していきたいと思います。

私は臨床心理士でもないし、心を扱う仕事をしているわけではないので、全然専門家という立場ではありません。
ただ、その周縁で心や考えに向き合う仕事をしている立ち位置ではあるので、(こういったジャンルについて、一般的な立ち位置よりは)考える時間が多い立場かもしれません。

今日は主に一人の臨床心理師の方の本だったり講演だったりで聞こえてきたことから考えていけたらなと思います。



東畑開人さんに、’自分に向き合う’を学ぶ。


東畑開人さんをご存知でしょうか。
83年生まれ、40代の方です。
京都大学の大学院を出て、クリニック勤務の後、現在はご自身のカウンセリングルームを開業されている方です。
この方がなかなか一般の人に届きやすい声(メッセージ)で心の話をされていて、そういう意味では、今第一人者なんじゃないかなと思うんです。
2019年に学術書として「居るのはつらいよ」って本を出されています。
そして、去年の10月に出た新書で、「聞く技術、聞いてもらう技術」っていう本が出てます。
こちらは新書です。専門書ではないんです。
だから、「一般の人に届け!」「聞く技術みんな身につけてくれ!」みたいな感じで書かれた本なんだろうなと思うんですね。
そしてどちらの本も、私にはすごくいっぱい気づきがあったんです。
ただ、「居るのはつらいよ」の方は、ドキュメンタリーみたいな書き方もされてるし、私がその領域の仕事ではないということもあって、 共感ってほどではなく、最初はするっと読んじゃったんですね。
「なるほど。そういう体験をしたんだ」っていう、なんか他者の体験を聞いているような感じで、全く自分ゴトになっていなかった、身に入ってなかったんですね。

ですが、先日ラジオで、カウンセラーの方たちが日替わりで講義をするという番組があり、東畑さんの回があったのを後日知って、アーカイブで聞いたんです。

若い世代に向けた講演だったようなんですが、これがもう、すっごくわかりやすかったんです。
すごく噛み砕いて話をされていて、もう響く要素がすごいたくさんあって。
専門知識を持ち合わせていない人にわかるように講演されていたので、私も「おお、なるほど!これで全てが繋がった!」みたいな感覚が得られて、ありがたい時間だったんですね。

それをここでシェアしたいと思います。

講演のタイトルは「人間を考える。ケアとセラピーー心と向き合うとは?―」でした。
東畑さんは「よく心と向き合いなさいとか向き合いましょうって言うじゃないですか」という話から入り、「向き合うってなんだと思います?」っていう問いからスタートしたんです。
しかも「向き合うのは良いコト」「向き合うべきだ」みたいになってると思うんだけど、「果たして向き合うべきなんですかね?」って。

臨床心理士の方から「心って向き合うものなの?」っていう、なかなかカジュアルに投げかけられて、「確かに…。はて、向き合うってなんだろう?」ってなったんですよね。

言葉としてはよく聞くし、なんか普段からやっているような気になってしまっていたけど、「向き合う」ってすごく難しいんですって。なかなかできない。
「さあ向き合いましょう」って言ったって、「何を考えればいいんだっけ?」ってなって、「自分の心とは?」「自分に向き合うとは?」ってなって、結局グルグルと堂々巡りになってしまいがち、考えが深まっていかないなものなんだそうなんです。

外で何かで出会うことで自分に向き合える

じゃ、どうすればいいのか。

自分と向き合うために必要なこととは、「外で何かに出会うこと」なんだそうです。
それでやっと自分と向き合えるんですって。
面白いですよね。
向き合う対象は自分なんだけど、本当に自分に向き合おうってなると、外で何かに出会う必要がある。
自分一人では完結しない、それが「心と向き合う」ってことなんですね。

例えば就活の時に、「自分と向き合いなさい」って言われがちですよね。
どんな風にキャリアを考えて、どんな会社に就職したいのか、それを考えるために自分に向き合いなさいと言われるわけですね。
その時に一番効果的に向き合える場が、インターンシップなんだそうです。
そこで今までになかった気づきや学びが得られる。
つまり、普段とは違う環境に行くことで、「自分って」って思える。
そしてそういう思いが立ち上がる瞬間が「自分と向き合っている」ってことらしいんです。

それを聞いて、「なるほど!海外旅行ってそういうことか!」って思ったんです。

「海外で自分を探す」ってこともよく聞きますよね。
私自身は、特に自分を探さない派なんですけど、それでも旅行に行くとなんかいろんなことが開けたっていうか、帰ってきたら、いろんなことがよりそれまで以上に、アクティブになっている感覚があります。
日常の仕事や趣味の中に、ワクワクすることをたくさん見つけられるようになる感覚。
それって、海外で違うカルチャーの中に身を置いて、違うものに出会って、改めて自分は何が好きで何に心が動いた、感動したみたいなことを考えたり見つけたりするからなんだろうなって思いました。

’心’とは自己関係である。

そして、東畑さんが言うには、「心」は自己関係なんですって。
自己、己の関係。
自分だけではあるんだけれども、自分が自分について考えるってことが自己関係であり、それが「心」ということなんだそうです。

いろんな不幸が自分の周りで起きているってことがあった時に、前近代においては自分の外側に原因があると考えたんだそうです。
その外側にある原因を取り除くべく祈り、それによって回復していくみたいなことが一般的だったそうなんですけど、それがどんどん変わってきて自分を責めるようになってきたんですって。
「私のせいだ」って、「周りでいろんなことが起きてるのは自分のせいだ」って。
この「私のせいだ」「私の問題かもしれない」って思った時に、心が試されるという体験を起こすんだそうです。
「私の中の何かに問題がある」と、つまり自分に向き合ってる状態が起きるんだそうです。
そして、この「向き合うこと」が「セラピー」なんだそうです。


ケアとセラピーの違い

心の援助にはケアとセラピーの2種類があります。
どっちが先か。
これには順番があるらしくて、ケアが先、セラピーが後だそうです。
「セラピー」って‘癒し’って言ったり‘治療’って訳したり、ちょっと曖昧な使われ方していますよね。
でも心理療法士の方がここで言っている「セラピー」は、カウンセリングが必要であったりということであり、これは「ケア」の後に起きるべきものだそうです。

では、最初の「ケア」とは何か。

「ケア」とは「傷つけないこと」「何もしないこと」だそうです。

何もしないっていうのは文字通り「何もしない」のではなくて、傷つけないように働きかけは行っているけれども、何か特別にことを起こさないっていうのがケアなんだそうです。
例えば雪だるまを傷つけないためにはどうしたらいいか。
文字通り「何もしない」ってやってると、どんどん溶けていきますよね。
このほっとくと溶けてしまう雪だるまに対して、溶けないような気温・室温を作ってあげるとか、外気温を保つとかっていう働きかけを行う、それが「ケア」ということになります。
つまり、「ケア」とは「ニーズを満たすこと」になります。
相手が必要としているものを提供すること、つまり依存を引き受けること、傷つけないことだそうです。

これに対して「セラピー」とは何か。

セラピーとは「傷つきと向き合うこと」なんだそうです。

例えば部活の顧問が部員に「お前らこのままじゃ負けるよ」って一言声かける。
これはセラピー的な言葉がけなんですって。
それを聞いて部員は考える。
「よし、もう1時間早く来て朝練頑張ろう」と変容が起きてくる。
これがセラピー的な関わり方なんですって。

つまりは「セラピーは傷つきと向き合うこと、心と向き合うこと」であり、そうして自律を促していく。
自分自身で考えて、変化をもたらすようなアクションにつなげていくと。
そこには、「向き合うという覚悟」が必要になってくるわけで、だからこそ専門性が必要な領域になってくるわけです。
専門的な知識とともに介入しないと難しいわけです。

ケアは先にあるものである。
そしてそれはニーズを満たしてあげることである。
その先にセラピーという、傷つきに向き合うべく介入があるんだなって、段階的なものなんだって整理がついて、色々スッキリした感覚を覚えました。

ケアし、ケアされる関係

たとえば。
子どもが「学校を休む」と言っているけど、どうやらズル休みっぽいと。
その時に、「うん、わかった」ってお母さんが言うとします。
そして、翌日。
翌日も「休む」と子どもが言うとします。
やはりズル休みだとは思ったけど、「休む」と子どもが言っているから、
「そうなのね、今日も行けないのね。じゃあ連絡しとくね」って言うとします。
この対応はケアの対応なんですよね。本人に介入せず様子を見る。
本人のニーズを満たすように働く、働きかける。

そして3日目。
「今日も休みたい」ってなったら、それはそろそろ介入のタイミングだと。
これに「うん、わかった」ってやってしまうと、ケアのつもりだったとしても、もうケアじゃなくなってくるらしくて放置になると。
そのあたりから、そろそろのセラピー(介入、傷つきと向き合う)という働きかけを必要とすることになるってことなんですよね。

いきなりセラピー的な介入とか向き合いとか、「一体どうなってんの?」みたいな頭ごなしな対応は、本当に気をつけなくては、と思いました。

こういったこと(構造)って、日常的にも結構ありますよね。
自分の子供に対してだけじゃなく、会社でいうと部下とかに対しても、本人がまだ向き合うタイミングじゃないのにって場面だったり、そしてケアが先だったはず、っていうことだったりね。

心と向き合った方がいい時もあれば 、「今じゃない」みたいな時もあるわけで、一概に「心と向き合う」っていうのが良いことかというと そうじゃないわけです。
「心と向き合う」は、これまではポジティブな言葉ととらえていたのですが、ちょっと考え方が変わりました。
相手が子供じゃなくても、大人同士でも、職場じゃなくても友達とでも、お互いケアしケアされるっていうふうな関係があるとすごく幸せなんだろうなって思ったんですよね。

自分をケアする。自分と向き合う。

「自分と向き合う」「ケアすべき対象と向き合う」、どちらにしても、そのタイミングはやっぱり見計らなきゃいけない。

例えば、ちょっと問題が起きた時、すぐ「心と向き合った方がいいのかな」ってなる前に、まずは周り(自分以外の要素)はどうかなって考えようってことですよね。
すぐに「私のせいだ」「私が悪いから」って思いがちだけど それは先延ばししていいんです。
まずは周り。たとえば「環境が悪いんじゃないか」とかね。
「環境・人・時間」って言いますよね、見直すべき3要素で。
何か問題が起きた時、場所を変えよう、人間関係を変えよう、時間を変えようみたいな言い方すると思うんですけど、それって正しいケアのありようだったんですよね。

「この会社しんどい」って時に、「私が対応できてないから」じゃなくて、「会社の環境に問題あるんじゃないか」って考え、クレームが言えたら言うほうがよい。あるいは職場変えるってことも考えていいわけだし。
っていう風に、まずは「ケアする」って立ち位置で見てみようと。

東畑さんがおっしゃっていましたが、一見、人ばっかり責めてるように見える人ほど、自分を責めてるんですって。
自分が辛いから、反動で他者を攻撃しがちで、次の瞬間罪悪感を抱え込むらしいんです。
だから、そうなりがちな人ほど、まずは周りが悪くないか考えようよって。
「私は今辛い」「このままでは大変だ」みたいなことをちゃんと伝えていきましょうよって。
そして、それをちゃんと聞いてもらおう、聞いてもらえるような関係を作ろうという話もされてました。

なんとなく、「人に依存しすぎては…」って思いがちだけど、苦しい時はちゃんと声にして周りに配慮してもらいましょうってことなんですよね。
そして、自分も周りを配慮しようよっていう、関係性の話をされてるんだなと思ったんですよね。

段階として、まずはケアが先。
それでもダメだったら、どうしても何か違うと思ったら、その時には向き合いましょう(セラピー)ってことなわけです。

東畑さんは、こうおっしゃってます。

向き合ってくれる相手が居ることで、僕らは自分たちと向き合うことができる。

これを聞いて、人間って関係性でできてるんだなって、すごく思いました。

私の配信は、最終的にこういう関係性とかコミュニケーションに帰着していく配信が多いのですが、私はやっぱり、ここに興味があるんだなって改めて思いました。
人は、関係性の中で自分を見つけたり、向き合えたり、ケアされたりケアしたり、そして時間の使い方をうまくできるようになったり、深い時間を生きれるようになったり、重要な体験っていうのを積み上げたり、と、それらはどれも一人じゃできないんだな、と思いました。

「ケアとは親密な関係を生きること」と、「居るのはつらいよ」の本の中でもおっしゃってます。
依存というのは人間にとって本質的な営みなんだそうです。
「依存する」を認めてあげる関係、依存しあうというのかな。
そこを遠慮している場合じゃないよ、ということをおっしゃってました。
そういう関係を見つけていこうということだと思います。

不可逆的な’セラピー’、円環構造の’ケア’

時間の流れという視点で考えた時に、セラピーはょっと渦巻きながら、ぐるぐると俊々しながらも、やっぱり時間は一方向に進んでいくという不可逆的な流れがあり、これが物語構造でもあるということらしいんです。
自分と向き合うと、いろいろつらい思いをする。
でも、何度かくじけながら向き合う中で、新たな気づきを経て、「自分の物語」を今までのものと違う形で作り上げ前に進む、というのがセラピーの構造。

一方で、ケアの時間の流れは、ぐるぐるしているんですって。円環的であると。
ものすごい変革があった、成長があった、クライマックスがあった、みたいな物語的な流れではなくて、日常の中でぐるぐると、時には少し目立った動きもあるけど、山場というものがないような形で、問題のないように働きかけながら進んでいく。つまりはこれが日常的ということらしいんですね。
なるほど、だからケアは先で、何かがあった時にセラピーなんだな、と思いました。

自分にとっても他者にとっても、ケアとセラピーの中身と違いを意識していくことはすごく大事だなと思いました。

以上、ちょっと長めになっちゃいましたけど、「ケアとセラピーの違い」と、「それへの向き合い方・捉え方」について、一般の人間が日常的に考えられること、できることって何だろう、ということについて、思ったところを配信しました。

以上、Jidakでした。ではまた。

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