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少年期 4

弘前の街にも進駐軍がやってきた。進駐軍のMPは軍の兵隊、街の監視にあたりジープを乗り回しては見回りをしていた。進駐軍も市民や子供に対してとても優しかった。進駐軍の兵隊さんから貰ったはじめて口にするチューインガムは噛んで歯を綺麗にするもので味がなくなったら捨てるんだよと教わって驚いた。
弘前の街も少しづつ落ち着きを取り戻して来たが、僕の生活は相変わらずだった、戦争前と同じく勉強のできない負けず嫌いの国民学校三年生は毎日喧嘩ばかりしていた。

お陰で学校から帰ってくると喧嘩に負けた子供の母親が我が家へ文句を云いにきて、母は僕の手を引いては相手の家へ謝りに行き、帰ったら物置部屋に閉じ込められる毎日を過ごしていた。
物置部屋には亡くなった父親の本箱や季節の家具、食器などが仕舞われていた。父が建築家のせいか大型の本箱が幾つも並べられ棚には日本文学全集、世界文学全集、百科事典等が入っていた。食べる物は木の箱に入ったリンゴ箱が積み上げられ小さな窓から物置部屋をぼんやり明るくしていた。毎日のように閉じ込められる物置部屋では何もすることがなく退屈な日を過ごしていたが、一冊の日本文学全集を取り出し読み始めた。
ひと通り全巻読んだ後は世界文学全集を読み、全漢字にルビがふってあったので読むことが出来た。お腹がすいたら木箱を無理矢理開けてはリンゴをかじり本を読んでいた。時には、幻灯機を見つけ出しセロファン紙にインクで絵を描き幻灯機で映しては楽しんでいた。

小学校五年生のある日、二階の兄貴の部屋で寝転びながらいろんな話しをしていた時、突然三男坊の兄貴が「おれ、フランスに行きたいんだ」と言い出した。
それを聞いて、僕は「よし、俺が船長になってフランス迄連れて行くよ」
戦後二年が経っていた。この時から人が変わったように喧嘩もせず部屋に閉じこもり勉強を始めた。母は「無理なことはやめな!、お前には絶対無理だよ」「なにしろ、商船学校は日本全国から受験生が殺到するから、絶対合格は無理だね」母は続けて言った「船乗りは男の世界だから喧嘩ばかりしているお前には向くけど船長は無理だね」

母からこてんぱんに言われると不思議にやってやろうと意地むき出しになった。勉強して分からない時には意地でも母や兄弟に聞く事は出来なかった。そこで思いついたのは漢和辞典から難しい字で字画の多い字を見つけては蝋石を持って道へ出て、道幅いっぱいにその漢字を書いて読めそうな人が来ると「この字なんと読むか教えて下さい」と聞き出していた。

正確に読めるおじさんへ「すみません、勉強教えて下さい」おじさんはにっこりすると「家へおいで教えてあげるから」おじさんのお家へお邪魔して奥さんからおやつを頂きながら勉強を教えて頂いた。このような事から分からないことがあるとよくこの手を使った。

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