日本軍のシベリア出兵、虐殺・略奪 1918年-1922年(Wikiより)、それからの流れ、他
これは日本の汚点の一つだと思う。
高校の授業で触れたか、遠い昔で覚えていない。
シベリアと言えば”シベリア送り” 、
”シベリア抑留” が思い出されるので
”シベリア出兵”の事は全く頭になかった。
革命の混乱で内戦状態の ロシアに、
日本を含む協商国が
勝手に乗り込んでしたことは、
まさに火事場泥棒ではないだろうか。
(略奪行為を含む)
北方領土について、いつも日本がロシアに対して使う
「火事場泥棒」という言葉は、そのままお返しの
まさに「どの口が言う」案件だと思う。
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シベリア出兵
ロシア内戦への干渉戦争
協商国のロシア内戦への介入 (対ソビエト干渉戦争、ロシア干渉戦争)
「1918年から1920年まで(日本のみ1922年まで)行われた協商国(第一次世界大戦における連合国)によるロシア内戦への一連の干渉戦争」
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日本軍のシベリア出兵 1918-1922年
「1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ[1]。
共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。」
シベリア出兵時のイワノフカ事件
↑ 非常に残虐な例も。
「イワノフカ事件(いわのふかじけん、ロシア語: Инцидент в Ивановке)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対する抗日パルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村(ロシア語版、英語版)(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件[1][2][3]。」
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浦塩派遣軍
「シベリア出兵実施のため1918年(大正7年)8月に編成された。1920年(大正9年)の尼港事件では、第14師団歩兵第2連隊第3大隊が全滅し、その救援のため北部沿海州派遣隊を出動させた。1922年(大正11年)11月に復員。」
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ロシア内戦の戦闘に日本の兵士が参加
1919年夏「ボグダットの戦い」
「ザバイカルでのロシア内戦中で最大の、ソビエトパルチザンと白軍 (遠征する日本の第5師団と共に)の間で行われた戦闘」
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極東共和国
1920年3月7日-1922年11月19日
日本のシベリア出兵に対峙すべく建国
極東共和国(きょくとうきょうわこく、ロシア語: Дальневосточная Республика, Dal'nevostochnaya Respublika、略称:ДВР、英語: Far Eastern Republic)は、1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく建国し、1922年11月19日まで存在した短命な極東の傀儡政権、緩衝国である。
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尼港事件
「尼港事件(にこうじけん、露: Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英: Nikolayevsk Massacre[1][2][3])は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。ニコラエフスク事件ともいう。」
「殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた[8]。」
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サガレン州派遣軍
(さがれんしゅうはけんぐん)、大日本帝国陸軍の軍の一つ
1920年(大正9年)7月29日ー1925年(大正14年)5月25日
「シベリア出兵時発生した尼港事件を受け、北樺太を保障占領するため1920年(大正9年)7月に編成された。」
創設 1920年(大正9年)7月29日
廃止 1925年(大正14年)5月25日
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 軍
所在地 北樺太
最終上級単位 浦塩派遣軍
最終位置 北樺太
主な戦歴 シベリア出兵
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シベリア出兵時の略奪
(以下は記事のコピペ)
「旧日本軍が奪った金塊返せ」 北方領土交渉、ロシア保守派が対抗策
2020年4月20日 02時00分 (5月27日 04時04分更新
一世紀前のロシア革命直後、ロマノフ王朝の金塊をシベリア出兵中の旧日本軍が奪ったとして、ロシアで「日本は金塊を返せ」の声が上がっている。主導するのは北方領土交渉に神経をとがらせてきた保守派だ。通貨安定のため金の保有高を増やしているロシア。日本から経済協力を引き出すため、将来的に外交課題とする可能性も指摘されている。
◆皇帝の財産
「北方領土の返還を求めるなら、日本はツァー(皇帝)の財産を先にロシアに返せ」
ロシア保守派の主張を盛り込んだ動画が投稿サイト「ユーチューブ」に十本以上も現れ始めたのは、二〇一八年末以降。日ロ首脳がシンガポールで会談し、北方領土の歯舞群島、色丹島の先行返還を軸に交渉が進むとの観測が出たころだ。「政府は領土を日本に引き渡すのでは」との疑念から、対抗策で金塊返還要求が強まった。
ロシア外務省も昨年「新事実が出れば金塊返還を外交議題にする可能性がある」とコメントした。
ロシア革命に干渉するためシベリアに進軍した日本軍が、反革命勢力の白軍から金塊を手に入れた経緯は日本側の史料にも残る。日本軍が得た金塊の量には諸説あるが、横浜正金銀行(現三菱UFJ銀行)や日本支配下の朝鮮銀... (続きは会員のみ)
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ロマノフ王朝のお宝は日本にあるのか
「1991年、ロシアの新聞社イズヴェスチヤ紙で驚きの報道がされました。「日本に持ち込まれたロマノフ王朝の財宝をロシアに返還するように」と。この報道に対し、日本の報道も「ロシアにロマノフ王朝の財宝を返還すべきである」と発信しています。はたしてこの話は本当で、日本のどこに財宝が眠っているのでしょうか。また、日本にロマノフ王朝の財宝がいつ持ち込まれたのか、謎がたくさんあります。それらを解決するために、ロマノフ王朝やロシアの時代背景に注目しながら、日本に財宝が眠っているのか紐解いていきましょう。」
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ニコライ2世
1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)
- 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日)(50歳没)
ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝
(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)
大津事件
シベリア出兵より27年前
↓ 1891年(明治24年)5月11日
「大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である[1][2]。」
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白系ロシア人とは
白系ロシア人
1917年-1920年頃(それ以降もソ連国外に残留)
国外に亡命したロシア人
「白系ロシア人(はっけいロシアじん、ロシア語: Белоэмигрант、英語: White émigré)とは、ロシア革命後、これに反対して国外に亡命したロシア人のことである。
(即ち白人や白ロシア(ベラルーシ)とは無関係である。 )
1917年から1920年までの期間でロシア国外に亡命した者は90万人から200万人と推定される。」
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(ここには「ロシア革命に反対」した
人達だけでなく避難民も含まれると思う。
のちに帰国している人もいる。
現在、戦闘地域から西側に
避難しているウクライナ人と被る。
2014年のマイダン革命(!)とその後の内戦が、
1917年のロシア革命と重なって見える。
そしてご存知の通り、もちろん
各国(先進国であるいつものメンバーのみ)
が介入している。)
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「著名な白系ロシア人
日本では、アーケードゲーム業界大手で有名なタイトーの創業者ミハエル・コーガン、洋菓子メーカー・モロゾフの創業者フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ、プロ野球で活躍したヴィクトル・スタルヒンなどが著名な白系ロシア人である。また、横綱大鵬の父マルキャン・ボリシコは、革命後日本に亡命してきた白系ロシア人(ウクライナ人)である。 」
この欄 ↑ にエリアナ・パヴロワも入れてもらいたい。
エリアナ・パヴロワ
「エリアナ・パヴロワ(ロシア語: Еле́на Па́влова, [注釈 1], 1897年3月22日 - 1941年5月3日)[注釈 2]は、ロシア出身の日本のバレリーナである[7]。1937年(昭和12年)に帰化、日本名は霧島 エリ子(きりしま えりこ)。横浜、のちに鎌倉でバレエを教え[8]、日本にバレエを根づかせた最初の人物として知られ「日本バレエの母」[1][9]と呼ばれる。」
「1919年(大正8年)7月に日本に入国」
↑ 日本バレエ発祥の地 鎌倉・七里ヶ浜の旧パブロワ記念館
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白系露人事務局
1934年12月28日~
「白系露人事務局(はっけいろじんじむきょく)は、満州国に設置された白系ロシア人担当の部局。正式名称は満洲帝国ロシア人移民局(ロシア語: Бюро по делам российских эмигрантов в Маньчжурской империи (БРЭМ、lit.))であり、関東軍の後援も受けていた。」
「事務局は1934年12月28日にハルピンに設置され、秋草俊が責任者となった。」
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↑白系ロシア人側にナチスの旗!
そして日本も絡んでいる…。
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浅野部隊
浅野部隊(あさのぶたい)は、満州国軍にあった白系ロシア人部隊の通称。関東軍の指導を受け、対ソビエト連邦の諜報・破壊工作を目的に編成された。
創設 1937年6月
廃止 1945年4月~6月上旬
所属政体 満洲国
所属組織 満洲国軍部隊編制単位 営(大隊)
兵科 騎兵 / 歩兵
人員 約700名(1941年)
所在地 ハルビン近郊第二松花江河畔
主な戦歴 ノモンハン事件、関東軍特種演習
(日本軍が白系ロシア人を集めて部隊を作って工作していた…。)
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昔、ロシアに滞在中に
なぜ、ロシアと日本は仲良くなれないんだろうか、の話題が出た。
「北方領土問題と、シベリアで日本人が大勢死んだからだ。」
自分の考えを述べた。
答えたのは非ロシア系の年長のソ連人だった。
「君たちが勝手に他人の国へ入ってきたんじゃないか。」
話がかみ合っていなかったらしいとずっと後で気づいた、
自分が思い浮かべていたのはシベリア抑留の事だった。
話の相手は、シベリア出兵について言ったのだと思う。
若い頃、そんな話は知らなかった。
日本が他国のごたごたに乗じて現地で好き放題やっていた、
なんて今でもほとんど聞くことはない。
これら全て、そしてかつての大日本帝国も、裏で操られていた、
と考えられる。
(2024年4月13日(土)に、多少の補足、手直し等を行った。)