カルテ11:石とならまほしき夜の歌と希死念慮
石とならまほしき夜の歌という中島敦の作品を知っているでしょうか。山月記で有名な方です。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」の人の短歌です。R.Dレインの「好き?好き?大好き?」の訳者解説の中で引用されてたものなのですが、気になってその歌を読んで見るとその歌の中の石は有情の有機体と違って穏やかそうだなと思いました。
この石になりたいというのは自殺願望(というより希死念慮に近い)の形態近いものがあるかしらと思うことが時々あるのです。というか石になる以外にも幻想文学的なモチーフを伴った変身願望というのは人とは違う有り様を望む点で人を捨てる=死のイメージが付きまとうのではないかと。
自分は「死にすら希望はない」ということで死への欲動<タナトス>をいなしてるタイプだと自負してるのですが、代わりに人としての有り様、精神を捨てられたらどんなに楽かと思いが人より強い志向を心のうちに感じるのです。多分SF的なポストヒューマンに至るための実験の被験者に喜んで志願するタイプでもあろうかなと思います。
自分が好きな小説「観念結晶大系(高原英理)」の最終章で人が石になる症例が出てくるのですが罹患者の大まかな特徴として「集団生活に苦痛、生活破綻者と言えずとも内向的で繊細で気弱なタイプ、理想主義的な傾向が非常に強く現実的で強かならばならない。」があげられます。
先程のレインの解説にも「石とならまほしき」と思う機会がないに人は幸せであるとも言ってます。
不幸自慢じゃないんですが、アニメや漫画を観たときの充足感の傍らでこの不幸がずっと纏わりつくと思うんです。
無理矢理にでも幸せになるとすれば、きっと社会との関わりの中で社会の間で取り決めされてる不文律を言いように使って他人に良いように呪いをかけて牛耳ろうと頭をはたらかせる人間に堕する予感がするのです。前に話したゲゲゲの謎の村の人間みたいになりそう。
石と言えば永遠を象徴するモチーフでもありますが、この石化願望が自殺願望ないし希死念慮と違うのが「この世界の"物語"を永遠のさなかで観てみたい」というのがあるかもしれません。
世界との関わりがなくなればと思う一方でその真反対の気持ちが同居してるわけです。
でも朝起きて何となく「あぁせっかく意識がなかったのに目覚めてしまった」という気持ちを最近味わってたのが今回の話をしようかなと思った発端の出来事なのでややわからないところですね。
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