カルテ10:幸せを科学で代替したい

幸せは気持ち次第というなら、身体全体を幸せホルモンで充たす手(副作用はここでは考慮しないものとします)もその範疇にあると思うのですが、こちらは薬漬けのような印象を多くの人が抱くのではないのでしょうか。

しかし「気持ち次第」とて現実を改変できているわけではなく自分の精神のなかで完結してる点で自己洗脳の側面も多いはずなのに、なぜこちらを人間ならではの営為のように言われてるのか前々から疑問なのです。

しかも「睡眠の重要性」「健全な精神は健全な肉体から」「心は電気信号」のように唯物主義と背中合わせの言葉はよく言われてるのに、幸せホルモン直接摂取だと何人「いやそれはちょっと…」ということを言わずにいれるのか。
繰り返しになりますが副作用は考慮しないというある種の思考実験とします。調べてみると現実だとセロトニン症候群とかあるみたいですし。

とはいえ同じ唯物主義を思考実験の土俵に据えるなら自分たちみたいなものにとっては腹立たしいことに「不安」も必要という可能性に行き当たらざるを得ないのですが…
「不安」というのは生き物を乗り物とする遺伝子の保全のための危機を察知する能力と言われてるそうです。
そして必ずあるであろう「杞憂」、これも「誤作動が多くとも本物の火事に必ず対応できる報知器」のようなものものと言えるそうな。
こう考えると確かに不安というのも生物学的に必要なフェイルセーフという話も納得できます、腹立たしいけども。

しかし氷河期の名残で脂肪を蓄える力が現代で肥満の天敵になった中で科学の面で脂肪燃焼の商品が需要を生んだりします。そんな中でダイエット商品のように幸せ商品みたいなのを望んでしまう心理はそんなにおかしいものでしょうか。

「気持ち次第は洗脳とどう違うかの言葉を自分は持ち合わせてない」という人間なのでどうせなら否が応でも作用する幸せホルモンレギュラー満タンをおりたい派なのです。

早く「不安」というものがサーベルタイガーの絶滅理由とされた牙のように危険の方が上回らないものかしら。

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