「本当はやりたいこと」に気づく時
自分って、何がしたいんだろう。
今でもたまに、そんな考えがふと頭の中に浮かんでくるような、どこに向かえばいいのかわからない迷子になるような瞬間がある。
たいていそれは、「やらなきゃいけないこと」に追われたときや、日々のあれこれがタスクと化しているときに起こる。
でも今のわたしが昔と違うところは、こういう状況に陥ったときに、どうすれば「本当はやりたいこと」を思い出せるか、知っていることかもしれない。
だいじなのは、心を動かすこと。
自分の琴線に触れるものを、集めにいくこと。
それさえ忘れなければ「ああ、いいなあ」「わたしもやりたいな」と思う種を見つけるのは、それほど難しいことじゃない。ちょっとしたコツだけ、覚えておけば。
やりたいことの種を見つける方法
何か心が動いたときに、「わたしもやりたいな」と思うことが結構ある。
例えば、最近読んだ漫画。
10年以上続いてきた連載の最終巻。最新刊を読むたびに「あれはどういう意味なんだろう」「この後どうなるんだろう」と数日間考え込んでしまうほど、魅力的な作品だった。
最終巻を読み終えた感想として最初に出てきたのは、「いいなあ、わたしもやりたい」だった(内容に対する感想じゃなかったのが、なんとも自分らしい)。
ただし、これは「わたしも漫画を描きたい」という意味ではもちろんなくて。
では、何に対して「やりたい」と思ったんだろう…と紐解いてみると、たぶんわたしは「長い時間をかけて世界観を完成させること」「長い間、受け手に楽しみにしてもらうこと」に魅力を感じたのだと思う。
他にも例えば、好きなアーティストのアルバムを聴いて「わたしもこんな物語性のある作品をつくりたい」とか、好きなバンドのライブを観て「聴き手が場を共有する空間をつくってみたい」とか、そんな「やりたいこと」の種を見つけてきた。
ポイントは、ただ「いいなあ」で終わらせるんじゃなくて、どの部分にそう思ったのか。それを考えてみること。
そうすると、自分では気づいていなかったような「やりたいこと」を思い出せたり、新たに気づけたりするのだ。
嫉妬も羨望も「やりたいこと」の種かもしれない
さっき書いたように、他人の行動を見て「いいなあ、わたしもやりたい!」と思うのは、割と純粋でまっすぐな「やりたいこと」への気づき方だと思う。
もうひとつ、「やりたいこと」に気づくために重要だけれども少々わかりにくい感情として、 “嫉妬” がある。
「ずるい」とか、場合によっては自分の負の思考を刺激されるあまりに「存在を認めたくない」「見たくない」と思うような。
でも、嫉妬を「負の感情」のままにしておくのは、もったいない。
嫉妬する気持ちには、何らかの「わたしもやりたかった」が含まれていることが多いから。
だから嫉妬は、落ち込むための原動力にするのではなく、「何に嫉妬したんだろう?」と考えて自分の「やりたいこと」に気づき、推進するためのエネルギーとして使うようにしてる。
そう考えるようになってからというもの、嫉妬を感じた瞬間は自分に嫌気がさすことも当然あるけど、次の瞬間には「自分はこういうことをやりたいと思っているのかもな」と、前を向けるようになった気がする。
「触れた瞬間にビビッとくる」に気づくこと
わたしは昔から、「いいなあ、わたしもやりたい」と思うことを目の当たりにすると、比喩ではなく全身の肌がぴりぴりするような、自分の中の温度が上がるような、サラサラと涙が溢れてくるような、そんなことがよくあった。
これは恋でよく使われる表現と同じく、まさに「触れた瞬間にビビッとくる」というものだったんだと思う。「これこそが、わたしがやりたいことなんだ」と気づいてしまった時の、心の動き。
でも実は、この感覚を失った時期もあって。
それは自分の心が動かなくなった時だったから、心が自由に動けるようにしておくことと、その小さな動きにも気づける自分であることを、今はとても大切にしてる。
憧れること、嫉妬すること。
触れていてワクワクすること。
もしも「やりたいこと」がわからなくなるとか、自分の目指すものの輪郭がぼんやりしてきたら、それらの感情を観察してみること。
どういうポイントに、そう思ったんだろう?
何が自分の心をざわめかせているのだろう?
心の動きに、敏感に。
自分の感情の小さな変化を汲み取って、前に進むための推進力にしていけたら、と思ってる。
おわり
***
「じぶんジカン」は、自分と向き合う時間をつくるノート達を販売しています。
毎週火曜&土曜に発送します。自分を見つめるきっかけに、ぜひ。