「自分の人生」が、おもしろいコンテンツNo.1であってほしい
「わたしもいつか、ああなってしまうのかな……」
ぱたりとドアを閉め、作り笑いを消した後、ぽつりと呟いた。
たった今、近所のおばあちゃんが突然訪ねてきて、「お庭をこうした方がいい」だったり「近所のあの人は〜」という噂話だったりをわーっと喋って帰っていった。悪い人ではないし、優しさからだってわかるけど、わたしと夫の顔には疲れの色が浮かんでいた。
最近、求めていないアドバイスをもらうことが増えた。側から見ると心配になるような生き方をしているからだろうか。それらのアドバイスはたいてい「あなたのためを思って」という気持ちで包まれ、ぐっと押し付けられる。
わたしの冒頭のつぶやきは「歳をとると、他人の人生に口出ししたくなってしまうのだろうか」という疑問だった。それに対して夫は「いや、一概に年齢の問題じゃないんじゃない」と返事をする。たしかに、別の隣人である80代のご夫婦は、普段からよく話をするけれど、わたし達の人生には干渉してこない。年齢の問題ではないのだろう。
「どうして求められてもいないのに、他人の人生に口出ししてしまうのだろう?」と考える。自分にはそういう側面はあるだろうか、と探ってみた。そして、はっとした。「……あるわ」と気づいてしまったのだ。「どうしてあの人はそんなことしちゃうんだろう?」と考えていたのに、自分の中に同じ傾向があったことに気づいて、なんだか居た堪れない。
まあ気づいてしまったのなら、仕方ない。そこから思考を進めよう。じゃあ、自分が「他人の人生に口出ししたくなってしまう」のは、一体どんな時だろうか。過去の経験を振り返ると、ひとつの共通点に辿り着いた。
「自分の人生が、おもしろくなかった時」だ。
自分の人生がおもしろくないと、外側におもしろさを求めがちになる。なぜなら、自分の人生をおもしろくするのは簡単ではないので、つまらなさを埋めてくれるような、生きる意味を与えてくれるようなものを外側に求める方が手っ取り早いから。
その対象として矢印が向きやすいのが、「他人の人生」というコンテンツだと思う。それで、他人の人生にあーだこーだ言いたくなる。しかも相手に感謝されたり、自分の経験を活かしてアドバイスができるという充実感も得られたりする。おもしろいコンテンツを労力なしに体験することと、自尊心を満たすことの、一石二鳥である。
過去にわたしが他人の人生に対してあれこれ言いたくなった時期に、「いや、これは自分の人生がつまらなくなってる証拠だ」と気づいたことを、久しぶりに思い出した。そうだった、自分の人生がおもしろければ、他人の人生に口出しをしている暇なんてないのだ。だから、もしまた口を出したくなったら、「自分の人生がつまらなくなってますよ!」のサインだと受け取ろうと思ったんだった。
冒頭に書いた年配の女性の話は一例で、最近特に、他人の人生にあれこれ意見する人が多いなーと感じていて。なんか、「自分の人生がおもしろくない」という人が増えてしまっているのではないか。そんな危機感がちょっと湧いてくる。大丈夫か、日本よ。
わたしは、いつまでも「自分の人生」が自分にとってのおもしろコンテンツNo.1であってほしい。というか、自分でおもしろくしていきたい。
誰かの人生に口出しする暇もなく、噂話やゴシップなんかよりも自分の日々のほうがおもしろくて仕方がない、という一生を送りたい。そしてそれが実現できるかどうかは、すべて自分次第なんじゃないかな、と思っている。
おわり
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