1995年の中国出張(1)
新型コロナの影響で1月のインドネシアから海外出張がありません。
転職前は年に4,5回、今の職場では年に1,2回程度の頻度でコンスタントに海外出張に出ていたので、移動が好きな私としては寂しい限り。久しぶりに初めての海外出張先だった東莞のニュース(ファーウエイの火事)を見かけたので、当時のことを思い出しました。
初めての海外出張先は中国の東莞市でした。香港返還前だったので、1995年頃だったと思います。
引率の課長と若手合計5名、雪国秋田から寝台列車で朝方に上野に着いて、京成で成田まで。十代後半頃には千葉の京成沿線がホームグラウンドだったのでこのあたりまでは余裕。
成田から人生初の飛行機に乗り、ユナイテッド航空で香港に向かいました。当時は国内線では自席で、国際線でも最後部の座席ではタバコが吸えました。機内食もビールも楽しんで、ここでもまだ浮かれてました。
到着したのは香港カーブで有名な啓徳空港。ここで同行者の一人がスーツケースに入れてあった未申告のタバコが見つかり税関で止められました。税関職員曰く、
「今申告して税金払えば罰金は不要。申告しない自由もあるがその場合はスーツケース開けてタバコがあれば高額の罰金払うことになるけどどうする?」
ここは確かに外国だと痛感した一コマでした。
香港ではホリデイ・イン ゴールデン マイル(金域假日酒店)で一泊。日本のビジネスホテルのシングルルームしか知らなかった小僧は、海外の4つ星ホテルのツインルームにビビリました。多分夕食に出たと思うのですが、記憶にありません。
翌朝はタクシーで駅(今思うと旺角東?)に向かい、MTRで羅湖へ。電車の中ではコードレスホンの親方みたいな携帯電話で喋ってる若者が何人も居て、これもかなりショックを受けました。秋田の田舎では自動車電話はあっても携帯電話なんて見たこともなかったですし。
終点の羅湖駅は金ピカのシャンデリア、鏡張りの壁といかにもジャッキーチェン映画の香港といった雰囲気でしたが、越境して中国側に入国した途端にガラリと雰囲気が変わりました。
イミグレーションから深圳駅までの通路は、コンクリート打ちっぱなしで、ところどころ正体不明の水たまりがあり、薄暗い蛍光灯は切れかかって点滅しているといった具合。
ここで喫煙者ご一行様は中国の洗礼を受けました。
MTRに乗る前にタバコを吸ってから、MTRで羅湖まで走り、香港の出国で並び、中国の入国で並び、税関で並び、優に3時間は経過してニコチン切れ。通路の一角に、昔駅のホームにあったようなタバコの吸殻が山盛りになった灰皿を発見。いそいそとタバコを出してやれやれと一服していたら、警棒を持って拳銃をぶら下げた公安が登場し、消えそうな壁のペンキ書きをゆびさして怒鳴りだしました。
ペンキ書きは多分「禁止抽烟」とでも書いてあったのでしょう。課長が5人分、50HKDを払って見逃してもらいました。罰金なら人民元か兌換券で払うはずなので、多分彼の懐に入ったのだと思います。
やっと駅前広場まで出て一安心かと思ったら、当時の深圳、東莞は経済特区に指定されて間もなく、饐えたような匂い、バスやトラックの黒煙、大声で怒鳴り合うような中国語、薄汚れた手で荷物を持ってチップをせびる物乞いや、しおれた花を売りつけようとする花売り、道に広がる得体のしれない液体、ひっきりなしに鳴るクラクション、謎の物体をかばんやポケットに押し込んだり、かばんをもぎ取ろうとする老人などにどっと囲まれ、半ばパニック。やっとの事で迎えの運転手に出会って車に乗り込んだものの、駐車場を出るまでゾンビ映画の様に窓や壁を叩き続ける物乞いに囲まれて、これからの2週間どんなことが待ち受けているのか、恐ろしく不安になりました。
深圳から東莞へは高速道路を2時間ほど走ったと思います。途中のインターチェンジや分離帯は工事中の箇所も多く、日本の感覚ではまだまだ未完成の状態でした。乗り込んだワゴン車はスライドドアのロックが壊れ半ドアでガタガタ音をたてっぱなし、一番下っ端でドア横で荷物を抑えている私は、本気で命の危険を感じました。ようやくホテル到着して本当にホッとしたのを覚えています。
2週間お世話になったホテルは、外国人専用のホテルで日本食、洋食、中華のレストランつき。部屋はツインでバスタブ付き、トイレは洋式。隣接のスーパーマーケットはHKDの利用可。今思うと当時の東莞では文句なしの環境だったのだと思います。
朝にホテルを出てから8時間、片道だけで本当に疲労困憊した一日でした。移動好きの私がこれほど移動で疲れたのは後にも先にもこの出張だけ。書いているだけで、当時の疲れを思い出したのでこの続きはまた今度。