意外と先進的!? 戦国「楚」の体制(後編)
○法治への道
「法治=秦」という印象が強いですが、法治による国作りは他の国々も取り組んでいました。というより、法治国家に移行できない国はできた国に吸収されていきます。春秋以前の儀礼による統治には支配できる規模や程度に限界があるのです。
秦以外で活躍した法家といえば韓の申不害(?~紀元前337年)が挙げられます。彼の具体的な功績は現代に伝わっておらず、今となっては歴史の闇の中ですが、宰相となった申不害が没するまで韓は富国強兵に務め、他国に脅かされることはなかったそうです。
※申不害は商鞅(紀元前390年~前338年)と同世代。ひょっとしたら法家同士、何かしらの交流もあったかもしれません。ドラマ『大秦帝国』では商鞅のかませ役っぽい登場でちょっと可哀想。
戦国時代の初期、魏の文侯に仕えた李克(李悝とも)も元は儒者でしたが、穀物価格の統制に踏み込んだりと法家らしい政策を行っています。
他にも春秋時代にはなりますが、鄭に仕えた子産(?~紀元前522年)は法家の走りといわれています。彼は鼎に法律を鋳込ませ、その内容を人々が知ることができるようにしました。
挙げていくとキリがありません。そのくらい法治志向の政治家は多かったのです。法治に移行できねば富国強兵は成し得ず、いつかは大国に滅ぼされるのが戦国という時代の習いです。
そして本題。
楚はどうだったのでしょうか?楚の改革者といったら既に紹介した呉起でしょう。彼もまた中央集権化と並行して法治を進めました。というより中央集権化と法治化は富国強兵策の両輪ですから、どちらかが欠けても改革は成功しません。ですが、ここも古代史の悲しいところ。呉起の改革について、その詳細は現代に伝わっていないのです。
でもご安心ください。古代中国史研究を大きく躍進させるモノが20世紀後半以降、相次いで発見されるのです。
それは「竹簡」。
紙が誕生・普及する以前は竹片を綴ったものに文字を書き、文書としていました。秦についてなら睡虎地秦簡や里耶秦簡が有名ですね。楚に関係する竹簡もいくつか発見されています。
※戦国時代の竹簡の出土は、なぜか秦と楚に集中しています。三晋や斉・燕といった地域の竹簡が発見されたとはあまり聞きません(勉強不足でしたらスミマセン…)。さすがに先進地域の中原諸国で竹簡の流通量が少ないということはないのと思うのですが…。
竹簡の保存に適さない環境だということは何となく分かりますが、お詳しい方がいらっしゃいましたら是非ご教示ください。
その中でも包山楚簡は楚の文化や体制を知ることのできる重要な竹簡といえます。包山竹簡は王族の墓から出土しました一連の竹簡群を指します。とりわけ目を引くのが「卜筮祭祷簡」でしょう。これは墓主の職業や健康を占った結果を記録したものです。
「宮廷に出仕するが、その1年間に何か身に災いがあるだろうか?」
「健康に難があります。祖先の霊を祭って祟りから守ってもらいましょう。」
こんな感じの内容です。やっぱり楚は巫風文化が色濃いお国柄なんだなぁと感心します。もちろん、秦や漢にも奉常(太常)という礼儀祭祀を司る役職はありましたので、楚だけが巫風に傾倒していたわけではありません。
それ以外に出土した竹簡として大変興味深いのは行政文書群でしょう。墓主は左尹(左丞相)でしたので、彼の官府には国中から行政文書がやってきたのです。訴訟文書や記録の漏れを告発する文書など、具体的な内容の文書が発見されました。
※正確には行政文書の控えです。というのも、受信や発信の記録が記された文書や、別々の地域の事件でありながらも同一の書紀によって署名された文書が発見されていることから、中央で保管するために書写されたものだと考えられるからです。原本は既に現場に戻されているのでしょう。
さて、その中でも実際の行政処分に関わる竹簡が存在します(便宜的に「集箸」「集箸言」と呼ばれます)。これらの竹簡には、表面に文書内容、裏面左側に受信者名と収受日、裏面右側に発信者名が記載されていました。
実はこの文書形式、里耶秦簡(秦の行政文書)と極めて類似しているのです。恐らく古代中国における行政文書のテンプレートだったのでしょう。とすれば、楚は文書の扱い方において法治大国である秦と遜色ないわけです。少なくとも楚は、氏族が治める共同体社会から脱却し、法治的な文書社会へと変化しつつありました。
それなら当然疑問に思うはずです。
「なぜ楚は法治国家と言われないのか?」
発掘された楚の行政文書を見ると、その形態は秦のものと大差ないように思えます。しかし、よく調べてみると両国における法治の度合いに違いがあることが分かるのです。
秦は郡県制を採用した国家でした。ですから中央から地方へと官僚が派遣され、赴任した地方官は文書を通じて中央からの統制を受けるのです。官僚は中央政府に属し、統治を任された土地とは縁もゆかりもありません(下級役人の胥吏は地元採用でしたが)。
そのため、秦の行政行為は基本的に中央が定めた法律を根拠にして行われました。地方官による独断を防いでいるわけです。各地の事情に応じた柔軟な対応が迫られるときでも、上級官庁へのお伺いや事後承認が必要でした。
そのような秦と比べると、楚の法治はまだまだ発展途上。有力貴族が統治権を有する封地も少なくありませんでした(彼らを「封君」と呼びます)。前編でも述べたように楚の改革は着実に進んでいましたが、それは秦ほどドラスティックではなかったようです。
「じゃあ、やっぱり楚は中央集権化に遅れてるじゃないか!」
と思われるのもごもっともですが、それでも中央集権を目指していた根拠として、王による封君への司法介入が挙げられるでしょう。もし封君が封地に対して排他的な権力を有していたのなら、包山楚簡から地方の実情を記した行政文書が出てくるわけがありません。
墓主は左尹、つまり中央政府の高官であり、地方官ではないのです。そんな彼の手元に末端の行政文書が届いていた。ということは、封君の治める封地の実情を中央が把握できる体制を構築していたというわけです。
封君は封地の統治権を有するが、中央からの監督を受ける立場にありました。何でも自由にできる治外法権とはいかなかったのです。
↓整理すると、
・楚は文書主義を地方にまで反映させていた。
・郡県制までは導入できなかったため、各地で統治権を有する封君が存続した。
⇒中央による監督はあれど、最終的には封君に委ねなければならなかった。
封地の規模は県以下だったので、封君の権力もそこまで大きいものではありませんでした。彼らは中小領主に過ぎなかったのです。
とはいえ、地方行政を担う長官が世襲のボンボンだったとすれば、秦のような総力戦体制を敷くことは夢のまた夢だったことでしょう。
【参考文献】
藤田勝久「包山楚簡と楚国の情報伝達:紀年と社会システム」
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