太平天国の科挙
教祖の洪秀全が科挙落ちであることは有名だが、彼が建国した太平天国もまた、人材登用のために科挙を行っていたのは皮肉である。
あまり語られない太平天国の科挙制度の紹介と、よくある誤解について簡単に解説します。
①科挙の仕組みと出題範囲
科挙、科挙と言われるが、科挙は合否が一回で決まる試験ではなく、地方試験から皇帝の前で行われる試験まで、複数回にわたって課される試験制度の総称である。
太平天国でもそれは変わらず、
郷試(村落規模の試験)
↓
県試(県規模。清朝と同名)
↓
郡試(郡規模。清朝では"府試")
↓
省試(省規模。清朝では"郷試")
↓
天試(天京で行われる最終試験。清朝の"会試"と"殿試"を合わせたもの)
という階級制度になっていた。郷試〜郡試までは毎年、省試と天試は三年に一度の開催となる。
肝心の出題範囲だが、そこは儒教を否定した太平天国。当然ながら四書五経から出題するわけがない。旧約聖書や新約聖書のほかに、天王の詔旨類や布教書から出題されることになった。
内容は清朝と同じく、論述や作詩、時事問題などである。ただし、これらもまた
「上帝が天王に世界を救済するよう命じた理由は?」
「清朝残党を駆逐し、良民を守る方法を論ぜよ」
「『四海一家皆兄弟』を題に作詩せよ」
というように、太平天国によるオリジナル化がなされていた。
②皇帝化する天王
ここまで太平天国の科挙について述べてきたが、天王を中心とした科挙が確立したのは1856年に起きた「天京事変」の後からである。
それまでは、
・東王(楊秀清)による「東試」
・北王(韋昌輝)による「北試」
・翼王(石達開)による「翼試」
というように、王府ごとに人材登用が行われていた。前述の「天試」の地位は、あくまでも相対的なものでしかなかったのである。
しかし、天京事変によって楊秀清と韋昌輝が誅殺され、石達開が離反すると、三王による考試は廃止されることになった。
その後、1859年には干王(洪仁玕)による改革として天試の制度化が進められ、「欽命文衡正総裁」を筆頭とした試験官が組織化される。
「総裁」は正総裁の他に又正総裁、副総裁、又副総裁の四人で構成され、その下に正副の「総閲」二名、「磨勘官」二名、「閲文官」十名が連なった。
閲文官はそれぞれの小部屋に入り答案を評定し、それを順々に上級の試験官に渡して評定を重ね、最終的な答案序列を天王に上奏するような仕組みになっていた。
ちなみに、清朝でも読巻大臣という試験官達が答案を回し読みし、それぞれ点数をつけて優秀な答案を十作選び、最後は皇帝にその順番を決めてもらうことになっていた。
すべての答案を一人の君主が評定するのは現実的でないため、天王の集権化が達成された時点で、図らずも清朝のような組織的な評定体制に移行したと考えられる。
③女科挙は存在しなかった!?
「女科挙」伝説は女でありながら状元になった傅善祥の逸話で有名である。しかし、結論から言って女科挙は存在しなかった。
傅善祥は実在した女性であり、楊秀清にその文才を買われて東王府で秘書として働いていた。ただ、太平天国にとっても一大事業であった科挙において、彼女が女状元であったという記載は一つもない。
科挙制度について太平天国が作成した『欽定士階条例』にも、清朝側が作成した『賊情匯編纂』にも、太平天国の官員を記録した『金陵癸甲紀略』『金陵省難紀略』『金陵雑記』『粤逆紀略』『金陵癸甲新楽府』にも、傅善祥が科挙に及第した女状元であったとは一言も書かれていないのである。
彼女が女状元であったという記載が登場するのは、太平天国が消滅して十年が経過した1875年出版の『盾鼻随聞録』からである。
清朝の常識では、秘書として王府で働くならば、科挙に合格するほどの学歴が不可欠であった。著名人であった彼女なら女状元であっても不思議でないという思い込みが、このような誤解を広めてしまったのだろう。
しかし、全くの誤解というわけでもない。一つの可能性として、王府内で行われた私的な試験だったという見方が考えられる。
初期の太平天国では、各王がそれぞれ自身の王府で試験を課していたことは前述した。そして、人材不足に喘いだ太平天国の各王は、王府内廷の管理者として、高い能力を有する女官を必要とし、学識ある子女を強制的に囲い込んだとしても不思議ではない。
つまり、彼女もまた東王府に招賢された博学子女として、女官向けの能力試験を課せられた可能性は充分に考えられる。
ゆえに、太平天国の公的試験としての「女科挙(女科)」は無かったが、王府内で課せられた独自の試験「女試」が実在した可能性は高いと言えるだろう。
(終了)