見出し画像

意外と先進的!? 戦国「楚」の体制(前編)

「楚は大国だが貴族が強く、そのため中央集権化に遅れた」
「巫風文化が抜けなかった楚と、法治に移行できた秦」

上記のような意見は楚の低迷と秦の躍進を説明したものとして広く言われています。確かに、大国として中原諸国に恐れられていた春秋時代と比べれば、戦国時代の楚はどこかパッとせず、内には改革を目指しても頓挫し、外には秦からの圧力に屈して首都を何度も東へ移しています。

春秋五覇に数えられた荘王が草葉の陰で泣いているぞ…。

ですが本当にそうでしょうか?
秦が中央集権化を達成し法治を徹底したことと、楚が改革に失敗し戦国時代の敗者になったこと。この二つは必ずしもイコールで結ばれるわけではないはず。中央集権化と法治は秦より中原諸国のほうが早くから進めていましたが、弱肉強食の時代に食われたのは中原諸国のほうです。

巫風(シャーマニズム)文化についても、それにハマって国を傾かせたほどではありません。何より合理主義の塊みたいな秦ですら卜(占い)を重視し、焚書のリストから卜書を外すほどですから。兵馬俑からも祭祀に使ったであろう動物の骨がいくつも出土しています。

秦 と 楚。何がその命運を分けたのか…?

それを調べるにあたって、上記の風説について検証してみたいと思います。

○楚の中央集権化
戦国時代の楚で中央集権化を目指した宰相がいました。古代中国史に詳しい人なら知らない人はいないはず。孫子と並ぶ二大兵法家にして名将、呉起です。

この時代では珍しくありませんが、呉起も諸国を渡り歩いた人物でした。衛の人間で最初に仕官した国は魯、しかしその人格を疑われてからは魏に亡命し名君と名高い文侯に仕えます。呉起は魏の将軍として多大な功績をあげますが、彼を寵愛した文侯が世を去り、理解者が一人、また一人と亡くなると呉起は魏の朝廷で孤立してしまいました。身の危険を感じた彼は楚に亡命します。

時の楚王、悼王はかつての魏文侯のように彼を寵愛し、令尹という宰相職に就かせます。そこで呉起は楚の国政改革に乗り出し、貴族の権力を削減します。しかし、彼の改革が成果を上げたのは後ろ盾となってくれた悼王のおかげでした。悼王が没すると、今までの恨みを晴らさんと七十余家の貴族が呉起のところへ「お礼参り」にやってきます。彼は最期の機転を利かし悼王の亡骸の上に伏せて、貴族達の放った矢を受けてその生涯を終えました。

跡を継いだ粛王はこれを見逃しません。「王の遺体に触れる者は死罪」という法を盾に、口うるさい貴族の大粛清に成功します。しかし、粛王は呉起の改革を存続させることまではできず、楚は以前の貴族中心体制に戻ってしまいました。呉起の意志は半世紀後、しかし敵国の秦で実現することになります。

というのが広く知られたお話です。例えば『韓非子』でも「楚は呉起を用いずして削乱す」と述べられています。ですが粛王は七十余家の貴族大粛清に成功しているのです。楚は貴族の数が多いといえども、これは貴族勢力を大きく後退させました。その証拠に、これ以降は国君(王)の地位を脅かす公子・公孫(先王の兄弟や甥)が現れませんでした。というのも、以前の楚では公子にも王位継承権があり、必ずしも嫡男による相続が決定づけられていなかったのです。

※公子は諸侯版王子のこと。楚は王を名乗っていたので厳密には王子でもいいですが、中原諸国の文献には公子として記録されています。

「なら秦に先んじて楚が中央集権化に成功していたことになってしまうじゃないか!」
「しかし依然として楚の体制は分権的だと『史記』や『韓非子』に記録されているぞ!」

仰るとおりです。呉起と粛王の貴族粛清は国政から全ての貴族を追い出すことまではできませんでした。ですが一部の貴族、それも国君と濃い血縁関係にある公子・公孫を追い出すことには成功しています。つまり王に匹敵する有力者の排除には一定の成果をあげたわけです。彼ら大貴族の代わりに国政を担うようになったのは昭氏・景氏・屈氏などの戦国世族でした。

※屈氏と聞いてハッとした方も多いでしょう。そうです、屈原(紀元前340年~前278年)はこの屈氏出身です。彼は戦国中期楚における名門一族の生まれでした。

世族とは楚王家を本家とするところの分家に相当します。ということで世族も貴族です。事実、春秋時代の楚では世族が国君を凌ぐ権力を持った例もあります。しかし、戦国時代の世族には国君に匹敵する権力を持つ者は現れませんでした。というより、国君がそういう一族を選んで国政に携わらせたのです。

↓つまりはこういうことです。

・世族は国君からすれば遠縁の親戚、だから公子や公孫のように継承争いに発展する心配がない。
・複数の世族を参加させて、どこかの世族に権力が集中することを防ぐ。
⇒その世族選出の段階で楚王の恣意性を反映できる。

何に例えたら分かりやすいか…。
江戸時代の譜代大名なんでどうでしょうか?老中や若年寄といった中央の要職は名門の譜代大名が歴任しました。しかし彼らの石高は親藩や外様大名ほど大きくなく、将軍家にとって脅威になることはありません。

そんな丁度いいポジションにいたのが戦国世族なわけです。楚王による専制政治とはいかないまでも、中規模名門貴族との二人三脚で政を執る。どうでしょう?「緩やかな中央集権化」という雰囲気を感じられませんか?戦国世族は、戦国初期までの大貴族による分権時代と、戦国後期の国君専制時代の間に存在した過渡期の産物でした。

※戦国後期の楚って言うほど国君専制か?と思われるかも知れませんが、春申君や李園のような権力者が現れたのはひとえに楚王個人との結びつきが強かったからです。彼らの権力の源泉は玉座からのお墨付きであり、彼らが独自の権力基盤を持っていたわけではありません。

呉起の中央集権化は途中まで達成できたわけですし、後進的な楚からすれば当時の意識としても及第点だったのではないでしょうか?

【参考文献】
大澤直人「戦国楚の政権構造ー戦国世族を中心にー」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?