#日本遺産 テレビ屋が体験した日本遺産【3】 加賀前田家ゆかりの町民文化 富山・高岡
学生時代の昔に何度か富山県に行きました。行くと言っても長野県大町市から立山連峰を越える、黒部立山アルペンルートを利用しての道行きです。主目的は立山でのスキー夏合宿で、合宿を終えると、決まって富山市のお寿司屋さんに寄って、新潟県直江津経由上野行きの列車で都心に戻るという行程でした。土産には必ず「ますのすし」。
その頃新幹線なんかありません。合宿抜きにまっすぐ移動したとしてもあしかけ三日かかる工程です。
自分にとっては、「とにかくすっごい遠い」、それが富山でした。2000mを越える高地で辛い練習をしたあとにたどりつく富山平野は、それはそれは天国のようにも思え、とても思い出深い土地でした。
それから30年。富山平野にある高岡市が日本遺産認定を受けました。
そのタイトルは、
「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 -人、技、心-」
28文字と長いですから、番組スタッフの間では「高岡」もしくは、「高岡の町民文化」との独自の呼称を使っていました。正式な情報はこちらへ。
富山湾に面する高岡には有名な絶景スポットがあります。
「雨晴(あまはらし)海岸」です。
富山平野からは雄大な立山連峰がどこからでも見られますが、この海岸から見ると「女島」という小島が手前にからんで、山脈の大きさがひときわ強調されて見えるのですね。雨晴海岸から見て一番尖って高く見えるのが剱岳(2999m)でその右の方に立山三山が並び、さらにその右側になだらかな斜面を魅せる「弥陀ヶ原」と言う高原があります。筆者がスキーの練習をしていたのはその弥陀ヶ原の奥の雪渓でした。この海岸、日本遺産のストーリーには登場しませんが、個人的な思い入れ込めて、番組のトップカットにしました。
さて、前段が長くなりました。本題の日本遺産です。
高岡には市民が誇る文化財がいくつもあります。
富山県内では唯一国宝指定されるお寺「瑞龍寺」。東大寺、鎌倉と並び日本三大大仏に数えられる「高岡大仏」もあります。北前船が寄港した歴史ある「伏木港」と、独特の作りの廻船商人の館もあります。毎年5月には、ユネスコの無形文化遺産「高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)」も行われます。かつてそれらはばらばらに紹介されていましたが、日本遺産によってひとつの文脈で串刺しにされました。「瑞龍寺」も「高岡大仏」も、「伏木港」も「高山御車山祭」も、江戸時代以来、高岡の町民が育ててきた独自の文化の証であるということが、日本遺産によって専門家や専門書の助けを借りずとも知ることができるようになりました。
とはいえ、高岡市発信の資料をことこまかく読みこなすのはおっくうですから、取材者目線で高岡の歴史文化の特徴を言うならばこうです。
「城主のいない城下町」
高岡は、鋳物づくりを中心とした商工業の町です。その始まりは江戸時代の初期、加賀百万石の前田家第2代の前田利長が、氾濫原だったこの地を整備して居城と城下町を作ったのがはじまりです。
前田利長が高岡に築いた城は引退後の居城でした。今も残る石垣と掘りには約400年前の築城当時の構造がほぼそのまま残るとされ、とても貴重な城跡だそうです。
しかしこのお城、短い命でした。前田利長は在城わずか5年で他界。その翌年には江戸幕府が一国一城の決まりをたてたことから高岡城には藩主一族が住めなくなったのです。
普通であればその時点で城下の商人らも、藩政の中心の金沢に移ったでしょう。ところが前田家は、高岡の町民が町を去ることを禁止しました。京から鋳物師を招聘し、町民に技術を浸透させて産業の発展を促しました。銅製品需要の高まりを利長は見越しており、その遺志を継いでのことでした。
鋳物と言えば、身近なところでは銅製の桶やヤカンなどですが、イワシやニシンから肥料を作る際に必要な大鍋の需要もありました。各地に続々と寺がたつと銅製の仏像、梵鐘も必要です。文化経済に欠かせない多様な需要が江戸時代に膨らみました。
高岡は鋳物の製造販売、北前船交易で繁栄。加賀藩のお膝元から離れた独特な経済都市になりました。日本海側の各地をつなぐ北前船交易全盛の時代です。伏木港は高岡で作られた鋳物製品や米の積み出し港として栄えました。
高岡の年中行事はこの町の発展史を物語ります。前述の「高岡御車山祭」、6月の「御印祭」、そして9月13日の「前田利長公顕彰祭」です。番組でもすべて取材撮影しました。
「高岡御車山祭」には、華やかな飾りをつけた7基の車山が登場します。御車山の原点は、前田家初代利家が、豊臣秀吉から拝領した御所車。利長の代にその御所車を高岡町民に与えたのですが、町民はのちにその御所車を模して車山(やま)を作り、町中を巡行させる行事としたのが始まりだそうです。前田家が太閤秀吉から賜った栄誉を、今も高岡市民はたたえ続けていると言えます。鋳物の町らしく、車山の装飾には、金属製のしつらえが多く使われます。巡行のクライマックスは、車山の勢揃い。高岡駅前に7台の車山が横一線に並ぶ様は壮観でした。
「御印祭」は、有機正八幡宮の祭事で、前田利長の命日をからめた6月に行われます。前夜祭では高岡の鋳物業が軒を並べた金屋町で総勢1000名あまりが「弥栄節(やがえぶし)」で踊り流す「やがえふ街ながし」が行われます。
「前田利長公顕彰祭」は、利長の誕生日の9月13日に行われる祭典で、一年に一回だけ利長の墓所が開かれ、一般市民が焼香に訪れます。この墓所は、一大名の墓所としては最大級の立派なものだそうです。集まる市民はみな真剣に手を合わせます。前田利長は高岡の守り神のような存在なのでしょう。
さて、冒頭で触れた文化財も紹介しましょう。
国宝、瑞龍寺は前田利長の菩提を弔うために建てられた寺院。前田家とは外様大名でしたが、外様大名の菩提寺でこれほど壮大なものは例がないといいます。
そして日本三大大仏の「高岡大仏」。高岡城正面の大手町にたちますが、その昔は木造大仏であり火災で二度焼失しました。今の大仏は昭和8年に再建された三代目ですが、「火に強い大仏を」と、市民の寄進のもと高岡の鋳物職人と技術が結集して完成したものでした。かつて鎌倉大仏を「美男」と詠んだ与謝野晶子は高岡を訪れた際、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとかしなかったとか。三代目大仏造立の逸話がこちらのページにあったので良ければ見てみてください。
「城主のいない城下町」高岡。「官」の後押しはあったとしても町の発展の主役は「民」でした。今の日本もそんな感じになれれば、景気がよくなるんでしょうか?
ところで昨年、筆者の同僚スタッフの中に高岡に旅した女の子がいて金屋町の古民家ホテルがとても魅力的だったとか。高岡の銅器メーカーの運営で、ホームページにはホテルがおすすめする高岡の見所紹介があります。ぜひのぞいてみてください!
最初に紹介した雨晴海岸の詳しい解説ページもありましたのでこちらもぜひ!
では、また。
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