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「生きづらさとは」
今日は生きづらさについて考えてみたいと思います。
生きづらさの根源にあるのは、成功と正解、価値観が提示されていることにあるかと思います。
ゴールがあり、見本があり、多くがその目的を目指すという画一的な価値観の中だと、そこから外れてしまうと見向きされない、必要とされない、そのことが社会の枠組みから外れてしまう怖さをうみ、人から求められない寂しさを生むのだと思います。
成功や正解の多くが、社会的立場とお金だと思います。
双方必要なものでもあるし、獲得すれば生活しやすくなるのは事実だと思いますが、あまりにも全員が目指すがためにおかしなことになっているかなと思います。そして、少し成功よりも成長に目を向ける社会であれば違うのかなと思います。
人生は結局ある程度進んでくると、目標や目的への到達も重要ですが、むしろそのプロセスが重要だと気づくことが多いです。毎日のステップをどのように味わうか、そして楽しむか、それが非常に重要だと思います。
その中に仕事や人間関係や成功などがあって、様々問題もあるでしょうが、それを良いストレスと捉えて成長していける、そして幸せを理解できる生き方が重要なのだと思っています。
あまりにも結果至上主義に陥っていると幸せを感じることが遠ざかってしまう、なので、目的・目標はあって良いですが、それを唯一絶対のものにしないほうが良いと思っています。
また、今の日本は少し昔の日本にあった儒教の精神が失われてきていると思います。
アメリカでも、キリスト教が根底にあることで隣人に気を配る、周囲の幸せを願うということをよしとする文化がありますが、日本は今中途半端な個人主義になりつつあり、そのことがかえって不幸を呼ぶ循環になってきていると思います。
改めて思いやり、周囲の幸せを願う価値観を根付かせることはそのこと自体が幸せへのステップを踏むことになると思います。
宗教が良いと言っているわけではありませんが、何かそういった価値観を皆が獲得する教えは重要だと思っています。
結局、教育が社会的立場、お金の獲得をゴールとしてしまうと、異常な個人主義となり、一見その勝者は幸福に見えるかもしれませんが、結局がむしゃらにトップに登り詰めても何か納得できない、何かぼんやりとした不満を感じることになることは多々あります。そういった人も何人か知っています。
もう少し生きるということに目を向けるべきかなと思っています。
生きていくというのは大変なことだし、いつ何が起きるかもわからない。
そんな中で、ギスギスと競走ばかりというのは問題かなと思っています。
成長のために競走は必要ですが、その中の根底にはお互い生きていくための慈愛というものがあって然るべきだと思います。
あとはよく言われていることですが多様な価値観や生き方を認めることでしょうか。まあこれは認めてもらうというよりも、本人がそれを心からよしと出来るということでしょうか。
周囲に流されず、己の生き方を確立できて自信を持って生きることができるように生きていくこと。これは訓練が必要ですが、重要だと思っています。周囲に認めてくれと働きかけるのは私は違うと思っていて、まず自分が疑問を感じずに確立できることが大切かなと思っています。
もう1つは、監視社会ということでしょうか。
海外に行くと感じるのは、誰も自分をみていない、興味がないと感じることです。
日本では、お店や繁華街、電車など、なんとなく周囲に監視されている感覚を受けます。
これは、周囲と違った行動をとったら許しませんよ、という同調圧力が常にあるという感じでしょうか。
それがために、これだけ安全な社会が保たれているという側面もありますが、息苦しいというのもあります。
海外でよく思うのが、気温に関係なく厚着、薄着の人がいっぱいいるということです。
試しに、日本で夏少し厚手の服を着たときにめちゃくちゃ周囲の人にジロジロみられました。
海外で同じことをしたことがありますが、誰も気にしません。
この辺の画一的同調圧力は面倒だなと思います。
つらつらと書いてきましたがこの辺で。