「たらればや不平不満になってしまうことについて」
今日はあるYouTubeを見て思ったことを書きます
よく、自分の置かれた立場や状況に対して不平不満をいう人がいる
わからんでもないけど、思うことがある
きっと自分というものと世の中の事実がきちんと見えていないんだろうなと思う
厳しいかもしれないけど、そう思う
どういうことかというと
よく不平を言っている人は世の中の構造や仕組み、理不尽について話しているけども、確かに問題はあるけども
だからと言って、それらが全て自身の立場や状況をおかしくしていることはまあほぼない、ほとんどない
もし不平や不満があるとすると
そもそも自身が所属している社会のルール自体を見誤っていることが多い
そして、自分に都合の良い部分はスルーするが、そうでない部分は敏感に気付き、不平につながっていくことが多いなと思った
もし、不平を言ったり考えることで大きく動かせたり変えることができるならそれもいいかなと思う
でも変えられないなら完全に無駄だと思う
自分を変えた方が早いし、変えるというか
事実実態を正しく掴もうという方向に変えた方がいいと思う
たとえば、ビジネスの世界でどうしようもなく嫌な奴がいたとする
しかし、そいつは
・すごくタフである
・鈍感でもある
・サイコパスである
・自身の欲望と会社の利益が一致している
・体力お化けである
となると、一見不適合かと思いきや、これはビジネスの世界では大正解という見方もできる
なぜなら、タフで体力があり、利益のためなら上席のどんな要求にもうなづき、ずるさも兼ね備えているときたら、これは適合以外の何者でもない
どうしても、そこに人格者であることというのを求めてしまうことがあるから不平になるが、ここに人格者が加わったらまあ無敵だと思う
しかし、人格者である人は時としてタフではなかったりするし、サイコパスでもないため必要な手段を取れないケースもある
こういうことはよくある
要は社会を見誤っているケースだ
上記が当然であるというふうに思えたら、不平不満はたまりにくい
逆に、ああなりたくはないしなれないなと距離を置いて冷静に生きられるかもしれない
別に、何でもかんでも成功してお金を得ないといけないというわけではない
ちゃんと生活できていればいいわけだし、その中で自分らしく生きれればそれでいい
それ以上の何かを求めていく中で実力以上のものを求めておかしくなっていくことがほとんどだと思う
たらればも同じかなと思う
たらればの場合は、自分がよく見えていない気がする
自身がよく見えていたら、現状の自分ではたらればをしても、それほどうまくいかなかった可能性に気づくこともできる
そうすると適正に努力した上で再チャレンジしたり、違う道を模索したりする
なんていうか自分にも言えるけども、人生を舐めているきらいがある
要は誰も彼もが運があるわけじゃないし、失敗を重ねてもどんどん突き進んでいかないと、うまくなんかいくはずもない
だって全員がそうやって努力を重ねているのだから
自分基準で努力を測ってもあまり意味はないと思う
苦しみは目の前の環境を正しく見れていないこと
また自身を正しく見れていないこと
そして、実力以上のものを得ようとしている
要は海老で鯛を釣るというようなことを考えているときに起きる
きちんと鯛が釣れる状況になっていけば自然と鯛は釣れる
そして、それは簡単ではないというのを自分も心に留めておきたい