「地域に根ざす社会科教育」から社会科教育の現在地を考える(2)
おはようございます!
毎週ご高覧いただきありがとうございます!
特に「地域に根ざす社会科教育」から社会科教育80年を考える(1)は今まで以上に閲覧していただきました。大変、励みになります
今回の前段は、次の内容を掲載します
第Ⅰ章 社会科教育の歩みと地域に根ざす社会科教育
第1節 社会科教育30年の歩み
(1)社会科教育30年の成果と課題
(2)「地域」の提起と子どもの現状
※ 本文中、<註>は(1)~(24)で表記しています(小文字・下付け表記はできませんでした。わかりやすいように太字にしています)
第Ⅰ章 社会科教育の歩みと地域に根ざす社会科教育
戦後、新設された「社会科」が、戦前の教育遺産を踏まえつつ今日に到るまで実践・研究を深めてきた過程を概観するとともに、その成果と課題を明らかにし、現在、民間教育研究団体が実践・研究の視座としている「地域に根ざす社会科教育」という問題意識がどのようにして生まれてきたかを考察していき、本論の問題提起とする。
第1節 社会科教育30年の歩み
(1)社会科教育30年の成果と課題
社会科は「子どもたちが、将来の社会のあり方を自分自身の生き方と結びつけて自ら選択できるような課題とする教科」(1)である。社会科発足以来30年に亘る研究・実践の成果をこの規定に求めることができるが、それは、子どもの科学的社会認識(2)を育てること、更にそれを子どもの生きる力にまで高めることと理解できる。両者は社会科教育史において、教育と科学(或いは、生活と科学)の問題として、社会科発足以来、しばしば種々の形で論争を繰り返してきたが、1970年代における「地域に根ざす」社会科教育創造の運動によって、両者の結合(相互関連的把握)が提起された。先にみた規定は、この成果のうえに立つものであり、ここに到る社会科教育の歩みを概観することにする。
敗戦後、憲法・教育基本法に基づく教育が実施され、1947年7月から「社会科」が新しく設置された。発足当時の社会科は、第一に相互依存の関係を重視し、第二に総合的学習を行わせる広領域教科であるから学問の系統に拠らない(3)、ということを基本的性格として出発したのであるが、このような初期社会科は翻訳的・経験主義的色彩が強く(4)、かつての「くにのあゆみ」批判(5)をすすめた歴史学者たち(6)や戦前の生活綴方教育運動の担い手たち(7)によって批判され、「日本の社会科」創造のための努力が積み重ねられた。(8)
1950年代は、文教政策の「逆コース」の時期であった。(9)文部省は、サンフランシスコ講和会議・日米安全保障条約体制にともない、社会科改訂を打ち出し(10)、これに対し、社会科を“反動から守る”ために社会科問題協議会(社問協)が広範な勢力を結集してつくられた。(11)こうしたなか、民間では「問題解決学習か系統学習か」をめぐって大論争が展開され(12)、いわゆる教育と科学の結合の模索が行われた。
‘50年代後半から’60年代にかけて、官側の知識偏重・つめ込み主義的な系統社会科に対して、民間側では、日本の課題に応える社会科教育は、「科学の体系としての系統性と、子どもの認識の発展とその手続き上での系統性との統一でなければならない」(13)とし、「教育と科学の結合」を重点とする「教科の現代化論」(14)の運動が、教育内容の自主編成の運動としてすすめられた。(15)一方、’60年代の地域・家庭・教育の破壊が誰の目にも明らかになった’70年前後、民間側では、子どもの発達についての関心の高まり、把握の深まり、住民 ― 子ども・父母(ママ)(保護者)・労働者など ー の生活共同・連帯の場としての「地域」を考え、教育(子どもの生活)と科学の結合点として、「地域」を社会化教育のなかに位置付けていった。
更に、'70年代以降、高度経済成長下における地域の破壊、教育的矛盾(16)が顕在化していくなかで、子どもの生活現実に深く根ざし、子どもの科学的社会認識を育成し、子どもを教室・地域・日本の主人公=主権者に成長させる(子どもの科学的な社会認識を生きる力まで高める)「地域に根ざす社会科教育」の全体像と実践が探究されていくのである。
(2)「地域」の提起と子どもの現状
(1)でみたように、「地域に根ざす社会科教育」という問題意識は、1970年前後に生まれたが、それはどのような社会的背景におけるものなのだろうか。1960年の池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」(17)に始まる「高度経済成長」政策は、「地域開発」の名のもとに大資本が全国に進出し、地域産業、自然を破壊し、政府による地域の中央集権的編成を推しすすめ、住民の生活共同、自治のすべてを破壊し、地域を搾取・収奪の場として「地方」化してしまおうとするものであった。他方、「高度経済成長」政策のもと、教育は、経済成長を担う人材開発と大量の労働力創出の手段に変質させられた。(18)すなわち、それは、少数のエリートを育成するための差別と選別の能力主義教育であり、学校は、いわゆる「落ちこぼれ」をつくる独占資本の労働力確保の場となっていく。(19)が、この時期は、このような反動的な教育に対して、教師・父母(ママ)(保護者)・地域住民を中心とした教育運動が広範に展開された時期でもあった(20)ことは注目に値しよう。
このような社会情勢のなかに置かれた子どもの状況はどうであろうか。富山県のある中学生は、「私は小学校のころ勉強という中に何か宝物がかくされているのかなあと思ったこともある。中学へ入るとホッとする間もなくテストがやってくる。 -中略― まだ未知数のぼくたち人間に番号をつけるなんておかしいと思ったこともある。学校で勉強、家で勉強、それでまだ足りなくて休み時間まで本とにらめっこをしている人もいる。まるで勉強の戦争だ。毎日毎日、自分が機械的に動かされているんじゃないかとも感じられた。(21)」と綴っている。子どもたちは、テスト競争と押しつけの機械的勉強に追われて、予感された「宝物」の発見もできぬままに、その人間的成長の可能性をすり減らしているのである。また、新潟県妙高村のある小学校教師は、「むかしは子どもたちは、町の職人たちが心血をそそぐ姿にふれ、その仕事へのあこがれを持ち、仕事の大切さもじかに知った。かつて町は事物や事柄に出会う子どもたちのもう一つの偉大な学校であった。(22)」と強調し、東京のある保母(ママ)(保育士)さんは、「私たちの幼いころは家の中でも子どもが参加できる仕事が多くあった。 -(中略)- 四季折々に子どもの生活経験を豊かにするものがあった。今は、それらが失われ、子どもたちは加工品や、即席品で埋まり、子どもたちのまわりには、その中をくぐり抜けて、やっと見つけた冒険の喜びもない。(23)」と言っている。同じくある建築事務所員は、「今は、くらしの中からアクセントやリズムがなくなり、何もかもがのっぺらぼうでとりとめがない。一体いつ、いきいきとした感受性をとり戻し、すり切られた心を癒せるのか。(24)」と提起している。
このように子どもたちは、生産関係から切り離されたところで生活することを余儀なくされ、それ故に働くことへの意義を見い出せなくなり、また、いきいきとした感受性をなくし、暮らしのなかからアクセントやリズムをなくしている。地域・自然・家庭環境の破壊により、子どもの全面的な人格発達の保障が阻害され、子どもの人格が歪められているのである。このような情勢のなか、子どもの全面発達を保障すべく、子ども・父母(ママ)(保護者)・労働者たちが現実に生活している場として、子どもの生活現実が見える場として「地域」が提起され、「地域に根ざす」社会科教育が創造されていくのである。
<註>
(1) 中央教育課程検討委員会『教育課程試案』(『教育評論』1976年、
5・6号)
(2) 「ある社会現象を科学的に認識し、そして他の社会現象との関連、
そのうちにひそむ普遍性・法則性を認識することが科学的社会認識であ
る。科学的であるためには、個別的な事象を処理できるような具体的な
ものでなければならない。それと同時に原因と結果が明らかにされ、原
因と結果の間にどのような関連があるかという因果関係がはっきりと明
らかにされなければならない。さらに、知識が実践の試練にたえるため
には、現実の諸事象の間に隠された内的なつながりをもとらえられるよ
うな普遍性をそなえていなければならない。」
川合章著『社会科教育の理論』青木書店1979年
(3) 昭和22年度版『学習指導要領』に次の規定がみられる。
「社会科は、従来の修身・公民・地理・歴史をただ一括にして社会科とい
う名をつけたのではなく、社会科は、今日のわが国の国民の生活から見
て、社会生活についての良識と性格とを養うことが極めて必要であるの
で、そういうことを目標として、新たに設けられたのである。」
「今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、
その進展に力を致す態度や能力を養成すること」であり、「社会生活を
理解させるには、その社会生活の中にあるいろいろな種類の相互依存の
関係を理解することが最も大切である。」
小嶋昭道著『社会科教育の歴史と理論』労働旬報社1983年39頁参照
(4) 「一般の教師や教育関係者は、カリキュラム構成について、まった
く無知に近い状態におかれていたため、アメリカの諸資料の翻訳・紹介
を手がかりとして、研究・実験と試行錯誤による模索の過程をたどるこ
とになる。」
日本民間教育研究団体連絡会編『日本の社会科三十年』民衆社1977年
37・38頁参照
「『社会科』が、調査・討論・ごっこ遊び、あるいはカリキュラム構
成の手順など、教育方法における新しさにもかかわらず、当初期待した
ようには教科がすすまない」
小嶋昭道 前掲書42頁参照
(5) 『くにのあゆみ』は、1946年10月14日、GHQにより許可された国
民学校(小学校)用国定教科書であり、主に(1)皇室中心主義的叙述
(2)支配階級の側からの叙述(3)国定教科書として強制的に普及さ
せることは新しい民主的歴史教育の趣旨に反する、の3点により批判さ
れた。
『日本の社会科三十年』19・20頁参照
(6) 「社会科教育が、民主社会を建設する能力をもった青少年を教育す
ることを目的としながら、そのような社会を前提としたプランであると
いう、理想と現実の循環矛盾に陥っていると痛感せずにはいられない」
松島栄一著「社会科をめぐる問題」1947年
「社会科は社会改良科といわれているが、それは、相互依存の名のもと
にいわれる社会改良で、一定の秩序と結び合わされた進歩が並べられ
て、たかだかその周囲の条件に対する妥協・順応、適応ないし合理化の
線を越えないであろう」
高橋磌一著「社会科の壁を破るもの」1948年
(7) 日本民主主義教育協会(民教協)社会科研究部会「社会科教育に関
する討論報告」1948年2月参照
(8) 今井誉次郎氏は、『農村社会科カリキュラムの実践』で、西多摩プ
ランを成立させた。
無着成恭氏の『山びこ学校』の実践は、子どもたちの生活現実をリアル
に捉える現実認識と問題意識の鋭さによって当時の経験主義社会科の表
面的・調和的「生活」や「経験」を突き破るものとして大きな衝撃を与
えた。
金沢嘉市氏の「小学校における体系的な歴史教育の実践」は、現代社会
をあらゆる角度から科学的に認識するための歴史教育をめざした。
相川日出雄氏は、「農村生活と歴史教育」の実践において、歴史と生活
綴方を結合させ、「生活綴方による事実の把握を、歴史のものの見方、
考え方でさらに一そう科学的にする」ことをめざした。
(9) 『日本の社会科三十年』76~92頁参照
(10) 「社会科で重要な要素となる社会科学的な認識を排除して、道徳科
にしよう」(『日本の社会科三十年』136頁)とする意図がみられ、教
科構造も系統社会科へ改訂された。
小嶋昭道 前掲書56・57頁参照
(11) 社問協は、六次にわたる声明を発表し、文部省の社会科解体の企画
に対して機敏に反撃を加え、戦後社会科の進歩的側面と教育実践の培っ
た遺産を確認し、発展させる意志の結集を図った。
『日本の社会科三十年』84~88頁参照
(12) 『日本の社会科三十年』137頁参照
(13) 日教組第八次全国教研集会(大阪)社会科教育分科会総括 1959年
(14) 教科の現代化論とは、「学校教育における教科の内容を現代科学の
成果と結合することに研究の重点をおく主張」である。
小嶋昭道 前掲書50・51頁参照
(15) 教科の現代化論は、教育の反動化が強まるなかで科学と教育の結合
をゆがめる教育内容政策との対決を、教科内容の科学性確保にしぼって
すすめたため、’50年代に日本の教師が努力してきた社会科教育の科学性
と現実性の追究は、教科内容の科学化にせばめられた。
小嶋昭道 前掲書21~27頁参照
(16) 「期待される人間像」(1966年10月31日 中央教育審議会答申「後
期中等教育の拡充整備について」の別記)
「ここにあるのは有機体的、全体主義的社会連帯のイデオロギーで
あり、ここでの職業観は、まさしく階級序列的社会に甘んじて適応で
き、仕事に没頭できる人間の理想像=産業の立場からの理想像にほか
ならない」
堀尾輝久著『教育の自由と権利』青木書店1975年106頁参照
「能力主義は学校が、すべての子どもや青年の可能性を発見し、そ
れを発達させる場としてではなく、ハイタレントの『発見』と『選
定』の場として機能することを求めているのです。学校は、知能テス
トやその他のテストそして観察指導を中心として、ハイタレントの見
こぼしがないようにその先天的素質をまず発見し、飛び級その他の制
度的保障、特別奨学金制度による財政的援助をすればよいのであり、
落ちこぼれる子どもたちは問題ないのです。むしろ、産業的要請から
すれば、学力不振で、進学意欲を無くす子どもたちこそ『金の卵』な
のであり、中小企業の労働力不足の対策として、むしろ、こぼれ落ち
るのを待っているのだと言っても過言ではないのです。」
堀尾輝久 上掲書101~102頁から引用
(17)
(18)
(19) その具体的政策として、1961年度からの文部省による全国一斉学力
テストの実施、1966年の中央教育審議会答申「期待される人間像」の発
表がなされる。また、能力主義教育は具体的には学校制度の多様化とし
て現れた。
経済審議会は、1963年『人的能力部会報告書』のなかで、「教育につ
いていえば、戦後教育改革は、教育の機会均等と国民一般の教育水準の
向上については画期的な改善がみられたが、反面において画一化のきら
いがあり、多様な人間の能力や適性を観察、発見し、これを系統的効果
的に伸長するという面において問題が少なくない」、「教育における能
力主義徹底の1つの側面として、ハイタレント・マンパワーの養成の問
題がある」「学校教育を含めて社会全体がハイタレントを尊重する意識
をもつべきであろう。」と述べている。
堀尾輝久著「中教審『改革』構想と国民の学修・教育権」(『教育の
自由と権利』青木書店1975年)参照
(20) 「学力テスト」に対する反対運動では、旭川学テ事件最高裁判決
(1976年5月21日)で
逆転敗訴になったものの、最高裁判決が、教育の地方自治原則を認め、文部行政のあり方に抑
制を求めた点意義がある。
また、家永三郎氏は、高校社会科教科書『新日本史』の検定不合格に対して、教科書検定は
違憲であるとして訴訟を起こし、全国民的な教育運動に発展し、特に、第2次教科書裁判(検
定不合格処分取消訴訟事件)第一審判決(1970年7月17日・東京地裁)では、子どもの学
習権思想を中心に教育の本質が述べられており、現在、第1次・2次・3次訴訟ともに係属中
である。(1985年現在)
(21) 堀尾輝久 前掲書103頁より引用
(22) 朝日新聞1975年3月20日付の投書による。(森田俊男著『地域の理論 森田俊男教育論
集第2巻』民衆社1976年29頁より引用)
(23) 朝日新聞1975年4月4日付の投書による。(上掲書 30頁より引用)
(24) 朝日新聞1975年11月9日付の投書による。(上掲書 30頁より引用)
高度経済成長期、教育政策は、産業界の「期待される人間像」に代表される要請を受け、少数のハイタレントの『発見』と『選定』の場として機能し、多数のいわゆる「金の卵」を創出する能力主義的教育を求められていました
堀尾輝久氏が、『教育の自由と権利』に引用した富山県の中学生の
「私は小学校のころ勉強という中に何か宝物がかくされているのかなあと思ったこともある。」
と綴った言葉は「教育の本質」を見事に言い表しています
子どもたちは、テスト競争と押しつけの機械的勉強に追われて、予感された「宝物」の発見もできぬままに、その人間的成長の可能性をすり減らしていたのです
他方、1947年7月に創設された初期社会科は、経験主義的な問題解決型の授業を重視し、生徒が主体的に考え、行動することを促しました
しかし、「学問の系統によらず」、「ごっこ遊び」的な実践も散見されました
第Ⅳ章 第2節(1)で取りあげる 教育科学研究会(教科研)鈴木正気氏の実践『川口港から外港へ』の第3章「うおをとる」(小学校2年生の実践)では、久慈という漁業地域の子どもでたちでさえ「さけの切り身がおよいでいる」「真赤なゆでだこが泳いでいる」といった高度経済成長による産業構造の変化(生活の場に生産者の働く姿が見えにくく、見えなくなった)による誤った認識を持つ現実がありました
鈴木氏は「地域」は、事物の連関 ―「見えるものから見えないものへ」― をみることを可能にし、社会を分析・連関する鋭い目を育て得る。つまり、「地域」を教材構成の視点に据えることにより、子どもの科学的な社会認識育成がはかられる。と、実践を深められました
1970年代、歴教協が提起した「地域に根ざす社会科教育」では、子ども・保護者・労働者が現実に生活している場として、子どもの生活現実が見える場として「地域」が提起され、「地域に根ざす」社会科教育が創造されていきました
「科学(学問)の系統」と「学ぶ側の論理(生活の系統)」の関係は、初期社会科以来、研究者(主に歴史学・教育学)・社会科教師を巻き込み大きな論争を繰り返しました
歴教協における安井俊夫氏と岩田健氏との間で繰り広げられたいわゆる「安井・岩田論争」は、「共感とわかるすじみち」(教育内容を他人事とはせず自分の問題として考える)を重視した安井氏と、科学的(実証的)かつ系統的な歴史学を重視した岩田氏との「社会科教育」のみならず「学校教育(教科教育活動)」の『本質』を問い、在るべき授業実践(子どもの科学的社会認識を育て、生きる力にまで高める)を探究するものでした
これに関する、私の37年間の教員生活(うち6年間の校長職)をふまえた、教員として、校長としての見方・考え方は(8)で触れたいと思います
何かのきっかけで、現場の生徒たちや先生方が幸せになっていくような議論が拡がればと願います
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします