鵲に導かれて新羅の王となった「昔脱解伝説」
「画竜点睛を欠く」、この言葉の通りに朝鮮総督府庁舎という不完全な形で使用され続け、大東亜戦争(太平洋戦争)敗北と共に日本の手を離れましたが、この建造物は「月宮殿(韓国皇帝の宮殿)」として使用される目的で建てられていました。
そのため「龍の頭」の景福宮の敷地の中に納める必要がありました。
その理由として京城(ソウル)で国の任務にあたっていた日本人やその家族が話していたものが「新羅四代 昔脱解王の伝説」でした。
昭和18年(1943年)に申來鉉によって編纂された「朝鮮の神話と傳説」より「昔脱解」を紹介します。
この話が龍の頭の「景福宮」に朝鮮総督府庁舎(新宮殿)を建設した大きな理由となっています。
筆者の申來鉉は早稲田大学文学部を卒業後、金泉中学校教諭(慶尚北道)を経て早稲田大学 演劇博物館勤務中に「三国遺事」や「阿珍浦の民話」などの「昔脱解王の伝説」から、この話をまとめました。
以上が「昔脱解の伝説」になります。
「昔脱解伝説」の説明と日本が込めたもの
朝鮮半島へ二龍と共に箱を導いた「鵲」は、日本では佐賀平野(佐賀県)に生息していて「かちがらす」とも呼ばれています。
また神武東征の「八咫烏(導きの神)」とも言われ、「熊野牛黄宝印」の烏としても知られています。
そして「昔 脱解」の名前の由来が「鵲」が祝福していたから「鳥」を取り「昔」を苗字としたとなっていますが、これは7月7日に「鵲」が群れて天の川に橋を作り、織女と牽牛が会うことが出来た(導いた)という七夕伝説にも通じていました。
また「瓠公」は日本から「瓢箪」(漢語ではひょうたんを「瓠」と書く)を腰に着けて朝鮮半島に渡ったと伝えられていて、こちらも「打吹山の羽衣伝説」の「夕顔」同様に瓜科の植物が関係したものとなり、この「瓠公」の話もまた日本と朝鮮をつなぐ「羽衣・七夕伝説(「白鳥処女説話」)」となっていました。
「天帝(明治天皇陛下)の思し召しによって、愛する織女(朝鮮半島の民)と別れ日本で長い修行をしていた牽牛(李王垠殿下)は、この度めでたくも天帝(大正天皇陛下)の御許しを得て、天の川に架けられた鵲の橋(漢江鉄橋)を渡り再び織女と出会えることになりました(皇帝に就任する)。」
この様に天の川に見立てられた漢江を渡り白岳山の麓の景福宮まで昇った場所に「朝鮮総督府庁舎(月宮殿)」が建設されたのは、「昔脱解王の伝説」になぞらえて、朝鮮から渡った卵(韓国皇太子)が日本で孵化して(日本で学問を修めて)朝鮮半島へ向かって泳いで行き、龍(皇帝)となることを意味していました。
これはまた「黄河上流の「龍門」と呼ばれる急流を登りきれた鯉は龍に転じて天へと登る」という、立身出世を表す中国の故事「鯉の滝登り」にも掛かっていました。
そのため事情を知っていた人たちは「朝鮮総督府庁舎は景福宮勤政殿の前に造った」ではなく「序列を重んじる韓国の文化に配慮して歴史ある勤政殿が上位である(偉大なる先王たちに見守られて政を行う)ことを示すため下に造った」という言い方をしていたのです。
昔脱解が精通していた地理学
昔脱解が精通した「地理学」とは現代の地理学とは違い、地相(土地の吉凶占い)を見る中国の「風水学」や「陰陽五行説」、そこから独自発展した日本の「陰陽道」に通じる知識のことになります。
古来よりこの学問を用いて、丘や山などの高い所から土地を見下ろし、そこに広がる河川や周囲の状況を見定めて土地の利用を決めていました。
新羅始祖王「朴赫居世の伝説」でも、新羅のもととなった六つの国(辰韓六部)は、天より下った六人の神が大きな山を背にして、その山の麓にそれぞれ小さな村を築いたことから始まったとされていました。
白岳山麓の景福宮を頭とした「京城(ソウル)の龍」は、国の重要任務に当たっていた引揚げ日本人や家族の集まりでは当時南山や他の丘や山から市街を見下ろすことによって確認が出来たとの話でした。
私の父の場合は、お供をして訪ねた南山の朝鮮神宮から祖父に指を指しながら龍の形を教えられたそうです。
その場所と思しきものが「朝鮮神宮写真帖」に掲載されている「南山亭裏庭よりの眺望」になります。
新羅の古都慶州を訪問していた皇族
朝鮮総督府庁舎竣工と同じ年の大正15年(1926年)に朴・昔・金の三王の国享(国による祖先の祭り)も始まっていました。
さらに同じ年の大正15年(1926年)9月に、死期が迫っていた大正天皇(同年12月25日に崩御)の代りとして、第三王子の高松宮 宜仁親王 が金剛山を訪問していました。
この訪問については引揚げ日本人の集まりで詳細を聞く機会に恵まれませんでしたが、訪問場所である金剛山は日本の三保の松原の羽衣伝説と同じ羽衣伝説が伝わっていた場所であると同時に、スサノオノミコトの降りた新羅の曾尸茂梨候補地の一つでした。
さらに翌月の10月には昔脱解王の祀られた慶州を訪問していました。
また、大正天皇崩御後に行われた「大正天皇御大葬儀(昭和2年・1927年2月7日・8日執行)」の葬儀総裁を務めた閑院宮 載仁親王が昭和4年(1929年)に同じく慶州の地と金剛山を訪問していました。
皇龍寺祉は、五行説では万物の中心を表す黄色の龍(黄龍・皇帝を示す龍)が降臨して造られたとする伝説が残る新羅仏教の重要遺跡になります。
日本と朝鮮をつなぐ龍蛇信仰
朝鮮半島側の「出雲族」とされていた「李王家」。
二龍に導かれ日本から朝鮮半島へ入った「新羅第四代 昔脱解王の伝説」。
漢江より天へと昇る龍の頭の形をした「龍宮」の「景福宮」。
その勤政殿天井に日清戦争後、清国より完全独立した証しとして描かれた「皇帝の龍」。
さらに、日本がまとめた「歴史民俗朝鮮漫談」にも書き残されている重要な「龍伝説」がありました。
本日はありがとうございました。