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鵲に導かれて朝鮮へ渡った倭人の秘密 靖国・君が代・朝鮮半島5 (歴史の改ざん・日韓対立への道.22)


かささぎみちびかれて新羅しらぎおうとなった「せき脱解だっかい伝説でんせつ

りゅう見立みたてた京城けいじょう(ソウル)

画竜がりょう点睛てんせいく」、この言葉ことばとおりに朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃという不完全ふかんぜんかたち使用しようされつづけ、大東亜だいとうあ戦争せんそう太平洋たいへいよう戦争せんそう敗北はいぼくとも日本にほんはなれましたが、この建造物けんぞうぶつ月宮殿げっきゅうでん韓国かんこく皇帝こうてい宮殿きゅうでん)」として使用しようされる目的もくてきてられていました。

りゅうあたま景福宮けいふくきゅう黄色きいろ部分ぶぶん)と朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ茶色ちゃいろ部分ぶぶん

そのため「りゅうあたま」の景福宮けいふくきゅう敷地しきちなかおさめる必要ひつようがありました。

その理由りゆうとして京城けいじょう(ソウル)でくに任務にんむにあたっていた日本人にほんじんやその家族かぞくはなしていたものが「新羅しらぎ四代よんだい せき脱解王だっかいおう伝説でんせつ」でした。

昭和しょうわ18ねん(1943ねん)にしん來鉉らいげんによって編纂へんさんされた「朝鮮ちょうせん神話しんわ傳説でんせつ」より「せき脱解だっかい」を紹介しょうかいします。

戦争中せんそうちゅう出版しゅっぱんされた「朝鮮ちょうせん神話しんわ伝説でんせつ

このはなしりゅうあたまの「景福宮けいふくきゅう」に朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ新宮殿しんきゅうでん)を建設けんせつしたおおきな理由りゆうとなっています。

筆者ひっしゃしん來鉉らいげん早稲田わせだ大学だいがく文学部ぶんがくぶ卒業後そつぎょうご金泉きんせん中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆ慶尚けいしょう北道ほくどう)を早稲田わせだ大学だいがく 演劇えんげき博物館はくぶつかん勤務中きんむちゅう三国さんごく遺事いじや「阿珍浦アヂンポ民話みんわ」などの「せき脱解だっかいおう伝説でんせつ」から、このはなしをまとめました。


むかし新羅しらぎ東海岸ひがしかいがん(下西知村ー阿珍浦アヂンポ慶尚けいしょう北道ほくどう)に一人ひとりばあさんがさびしくらしてました。
じいさんにははやわかれ、子供こどももなく、親類しんるいもなく、まった孤獨こどくでありました。いま一人ひとりたよりなさをなげくこともわすれて、毎日まいにちはまてはさかな海藻かいそうつてほそくらしてりました。

いつものごとばあさんははま海藻かいそうつてました。よくわたつたでありましたので、なみもなく、しずかなしずかな濱邊はまべでありました。

海藻かいそうりに夢中むちゅうになつてばあさんはきゅう四圍あたりのざわめきに、ふとこしげてうみほう見渡みわたしました。「んとしたことだう」と、ばあさんはひとごとました。
と、のは、うみうえかささぎむれそらおお眞黒まっくろになつてました。
かささぎむれおおきなつくつてぐるぐるまわりながら、「カー、カー」とさけんでました。

ばあさんは不思議ふしぎおもました。「かもめならぬかささぎなんであんなにうみうえんでるのだう」とまたもやひとごとつては、なに不吉ふきつ豫感よかん犇々ひしひしせまつてるのをどうすることも出来できませんでした。
何十年なにじゅうねんおな海邊うみべ海藻かいそうつてるものかささぎうみうえさわいでることははじめてだつたからであります。

ばあさんは不安ふあん好奇心こうきしんにかられながら、かささぎんでうみうえながめると、なみかくれするおおきなはこられてられて、きしほうかつてながれてました。

かささぎまもられたはこようやばあさんのところかつて、とうとうはまげられました。
ばあさんはむねおどらせながら、はこかたわらにつて、はこりくげてると、それはじつ立派りっぱはこで、非常ひじょうおおきなものでありました。

なにはいつてるのだう」とばあさんはこころなかで、そうつてふたけてました。おどろいたことには、そのなかには、七寶珠しちほうじゅ(※仏教ぶっきょうの7しゅ宝石ほうせき)につつまれ、容貌ようぼう端正たんせいおとこ赤兒あかご端坐たんざし、ばあさんににこにこ微笑ほほえみかけてました。

ばあさんは「まあ!」おどろきともよろこびともつかぬさけびをはっしてしまました。
んと可愛かわいう。きつと神様かみさまのおさずけにちがない。わたしさびしいらしを神様かみさま見届みとどけたにちがない」とって、その赤兒あかごげました。

そのときかささぎはこまわりにあつまりました。それは赤兒あかご祝福しゅくふくしてるかのうに、守護しゅごしてるかのうにえました。

それと同時どうじに、二匹にひき赤龍せきりゅう現はあらわれ、うやうやしくばあさんにました。
我々われわれは、かささぎともに、はこ保護ほごして、くにとどけたのぢや。大事だいじそだてるうに」とはこ來歴らいれきを、「多婆那國たばなのくに王子おうじでござる。

その多婆那たばなとは日本國にほんこく東北とうほく一千哩いっせんりはなれたるところ、龍城國、正明國あるは琮夏國ともくにには二十八にじゅうはち龍王りゅうおうおさめてる。
ときおう 含立婆はとおく積女國より王女おうじょめとりて王妃おうひとなせり。
しかれども不幸ふこうにして王子おうじあたず、始終しゅうしなげきてなみだれたり。
ってかみいのること七年ななねん王妃おうひはらとなれり。殿中でんちゅうよろこびにあふれぬ。

やがつき滿ちてけり。されどうまでたるはひとにあらでおおきなたまごなり殿中でんちゅうふたた憂愁ゆうしゅういろつつまれぬ。
父王ふおう 含達婆いかりてもうす「ひとひとならぬたまごむは不吉ふきつ前兆ぜんちょうなり、とおうみつべし」、と。

みのきさき、いたくこれをあわれみ、幾幅いくのものきぬ十重二十重とえはたえつつ七寶珠玉しちほうしゅぎょくれて、おおきなはこおさめ、かなしみていわく「なんじいまたまごなれど、多婆那國たばなのくに王子おうじかわることなし、何處どこなりとも因縁いんねん土地とちきて、くにおうたるべし」とて、はこうみうかべり。
我等われら二龍にりゅうこれをり、龍王りゅうおうめいり、護衛ごえいして駕洛からくに(※別名べつめい任那みまなて、いたる」

二龍にりゅうばあさんに一部いちぶ始終しじゅうをあらましみぎうにかたりました。そして、なみうえ放浪ほうろうしてるうちに、たまごはいつしか子供こどもになつてこともたのでありました。
そして二龍にりゅうばあさんにたのんだことを安心あんしんしたかのうにふたたうみなかふかはいつてしまました。
ばあさんは「これは本當ほんとう神様かみさまのおめぐみぢや、こんな貴公子きこうし勿體もったいない」と、いとも大事だいじいただいていそいそといえかえりました。

神様かみさまからさずかつたとばかりおもつてばあさんは、王子おうじ本當ほんとうごとくにちょうはなよとそだてました。そして王子おうじ名前なまえをどうけたものかとかんがました。

ばあさんは、りしのことなどおもして、王子おうじはまひろときかささぎむれ王子おうじ祝福しゅくふくしてたことから、かささぎちなんで「かささぎ」の「とり」をり、苗字みょうじを「せき」とし、また名前なまえは、はこいてたればこそ王子おうじたので、はこを「き」たまごから「だっ」したと意味いみからを「脱解だっかい」とつけ、せき 脱解だっかいうになりました。

脱解だっかいばあさんのあふばかりの慈愛じあいのもとに日増ひましに成長せいちょうしてきました。もとより凡人ぼんじんではありませんので、すべてのてんしゅういてました。

壮年そうねんになるにおよび、身長しんちょう十尺じゅっしゃく(※やく3m)たかきにいたくも大男おおおとこになり、むね鐵板てっぱんごとあつさで周圍しゅうい五尺ごしゃく(※やく1.5m)にあまり、しか骨節こっせつ(※関節かんせつ)はみな連鎖れんさとなつてつらなり、天下一てんかいち大力士だいりきしであるばかりでなく、風貌ふうぼう秀麗しゅうれい人品じんぴんゆたかにして、才智さいちぐんき、世俗せぞく凡夫ぼんぶではなかつたのでありました。

ばあさんのやさしい慈愛じあいふところはぐくまれた脱解だっかいは、気質きしつやさしくははなるばあさんに孝養こうようつくくすこと人々ひとびと羨望せんぼうするところとなりました。
うちてはこんなにやさしい脱解だっかいそとてはじつ勇敢ゆうかんでありました。海邊うみべそだつたかれ毎日まいにちうみともとして、浩然こうぜん(※おおらかなこころ)をやしなすこぶんでりました。

毎日まいにち海邊うみべつてりょうをして脱解だっかいながめては、「あんな立派りっぱ體格たいかく(※体格たいかく)をして、しか智慧ちえひいでてるのに、漁師りょうしには勿體もったいない。」と、心私こころひそかになげいてました。
ははなんとか脱解だっかい立派りっぱ人間にんげんにして立身出世りっしんしゅっせさせたい氣持きもち一杯いっぱいでした。

はは立派りっぱ成人せいじんしたまえにして、ははせつなる氣持きもちをうったました。
脱解だっかいや、なんじはもう立派りっぱ成人せいじんなされた。しかし、いつまでもこんな漁師りょうしをしててはいたかたがない。なんじ普通ふつう凡俗ぼんぞく人間にんげんではない。
なんじ多婆那國たばなのくに王子おうじぢや、これからでもおそくはない。學問がくもんをしておさむれば、屹度きっと立派りっぱ人間にんげんになるにちがない。これからりょうめて、學問がくもんおさめよ」と、かれ來歷談らいれきだんはは上話うえばなしなどをかせて、さとしてやりました。

孝心こうしんあつ脱解だっかい非常ひじょう感激かんげきして學問がくもんはげみました。
もとより才智さいちけて脱解だっかい日進月歩にっしんげっぽ學問がくもんすすみ、就中なかんずく(※とりわけ)かれ地理學ちりがくおさめて、地理ちり精通せいつうし、ひと學者がくしゃとなりました。

かれ毎日まいにちしょうしながら、國中くにじゅういたところ彷徨ほうこうし、やまいただきち、野原のはら眞中まんなかつて地勢ちせい研究けんきゅう餘念よねんがありませんでした。

かれは、みやこひがし吐含山とふくやま(トハムサン・慶尚けいしょう北道ほくどうのぼ四圍あたりやまかわ野原のはらながめてました。

かれなにおもつたか、はたとひざつて、「そうだ、あの三日月形みかづきがたおかだ」とさけびました。
その三日月形みかづきがたおかのは、月城げつじょうのことで、みやこ東南とうなんし、蚊川ぶんせんきた彎曲わんきょくしたかわながれに沿て、あたか半月はんげつかたちをなした小高こだかおかのことであつた。

地理學ちりがく精通せいつうしてかれには、土地とちこそ、住宅じゅうたく立派りっぱ土地とちであることがわかりました。
かれは、おかしろきずき、ろう(※高層こうそう建物たてものしろ)をかまて、じゅうすれば、富貴ふきこのうえなし、とこころなかにいろいろな構想こうそうえがきながらみやこにかり、その半月はんげつおかつてました。

そのとき、この半月はんげつおか月城げつじょうには日本にほんくにからわたつてて、新羅しらぎ宰相さいしょうとなり、權勢けんせいとりをも射落いおとすほどの瓠公ここうすで立派りっぱ住宅じゅうたくかまとどまつてました。瓠公ここうは、日本人にほんじんはじめてひさごこしけて日本にほんからはるばる日本海にほんかいわたつてたとれてる)

脱解だっかい月城げつじょう自分じぶんのものにしたいのであつたが、とき宰相さいしょうんでたのでは、無名むめい自分じぶんすわけにもかず、こましまました。
しかし、智慧者ちえしゃかれなんとか術策じゅっさくほどこしてがものにしうとをこまぬいてかんがました。

かれ早速さっそく瓠公ここう御宅おたくにしのびみました。そして、瓠公ここう邸宅ていたく彼方此方あちらこちらすみのかけらや、砥石といしのかけらなどを地面じめんひそかにめていてかえってました。

それからしばらつて、脱解だっかい瓠公ここうおとずれました。
そして、「はなは突然とつぜんおそりますが、貴殿きでんんでるこの土地とちは、じつわたし祖先そせん住宅地じゅうたくちであつたのです。わたしゆえあつてしばらくそとんでたのです。どうか、しからずおわたください」とみました。

突然とつぜんもうれにおどろいた瓠公ここうは「いや、そんな馬鹿ばかなことはない、貴殿きでんなに間違まちがつてるのではないですか」と、さとしました。
「いや、そんなことはない。間違まちがないことです。たしかにわたし祖先そせんんでたのです」と、りました。
瓠公ここう腹立はらだたしくなりました。「いや、そんなはずはない」「いや、そんなはずはない」と、兩方りょうほうともゆずませんでした。

瓠公ここうこましまました。突然とつぜんわけからないもうれには流石さすが瓠公ここう言葉ことばもありませんでした。
かく、これはけりかないことであるから、いたずらにあらそたところでいたかたがない。こうなつた以上いじょうはおかみさばきをけるより方法ほうほうがない」と、瓠公ここう威嚴いげんつてました。

「そうなれば、尚更なおさら結構けっこうなことです」と、脱解だっかいけをりませんでした。そして、脱解だっかいは、むしろそうなることを心私こころひそかにのぞんでりました。
やがて、判官はんがんまえ二人ふたりされました。そして判官はんがん脱解だっかいをいろいろと調しらべました。

脱解だっかいは「我々われわれ祖先そせんもと鍛冶屋かじやであつたのです。そして、あの月城げつじょういて鍛冶かじをやつてたのです」と、言上ごんじょうしました。
判官はんがんは、「それではなに證據しょうこでもあるとのか」と、ただしました。

勿論もちろん證據しょうこはあるはずです。あそこは鍛冶場かじばであつたのですから、地面じめんつてたら、あとがあることでしょう」この進言しんげんに、瓠公ここうなかいぶかしくおもつたもの鍛冶屋かじやあとがあろうはずはないとおも安心あんしんして、地面じめんらすことにしました。

大勢おおぜい役人やくにん立會ひたちあいもとに、地面じめんされました。
はたせるかな、地面じめんから、すみくず砥石といし片鱗へんりんあられてました。うごかせないたしかな證據しょうこあがつたのですから、判官はんがん瓠公ここう同情どうじょうはしたものいたかたがありませんでした。
それで、裁判さいばん脱解だっかいほう軍配ぐんばいあがりました。瓠公ここういたかたなく、自分じぶんれた住所じゅうしょわたしてやりました。

經緯けいいいたときおう南解次雄なんかいじゆう(※南解なんかい次次雄じじゆう新羅しらぎ第二代だいにだいおう)は、脱解だっかい智勇ちゆう感動かんどうして、脱解だっかい宮廷きゅうていしました。
それから、政治せいじにも參畫さんかく(※参画さんかく)し、智慧ちえ勇氣ゆうき縦横じゅうおう發揮はっきして、偉名いめいとどろかせました。

南解なんかいおう五年ごねんいたり、おう長女ちょうじょめとつてお婿むこさまになり、のち二年にねんにして瓠公ここうおな大輔たいふとなりました。
南解なんかいおう薨去こうきょさい、「くに今後こんごぱくせき二氏にし子孫しそん代々だいだいぐべし」と、遺言ゆいごんのこしてりました。
そこで、王子おうじ儒理じゅりは、父王ふおう遺命いめいしたがつて、義兄ぎけいあた昔氏せきしせき脱解だっかい王位おういゆずうとしました。

脱解だっかいは、「一國いっこくおさめる王位おうい凡人ぼんじんすべきではない。かなら高徳こうとく人君じんくんであらねばならない」とて、きびしくことわりました。
儒理じゅりは、「いや、貴方あなた義兄ぎけいあた目上めうえひとである。それに仁徳じんとくそなるから是非ぜひ王位おういかねばならない」と、脱解だっかいすすめました。

脱解だっかいが「いや、王位おうい王子おうじこれぐべきである」とば、「いや、義兄ぎけいが・・・」と儒理じゅりゆずりませんでした。
たがい王位讓おういゆずりにあらそつてても仕方しかたがないので、脱解だっかいは「むかしから人君じんくんとくあるひとは齒理(あや歯並はならびからはかかず)がおおうである。しからば、齒理のおおほう王位おういすわることにしう。」とて、二人ふたりもちんで、あや)を見比みくらべてました。

ところが、儒理じゅりの齒理のほう脱解だっかいよりもおおかつたのでありました。
それで、次々雄じじゆういで儒理じゅりおう即位そくいし、脱解だっかい政治せいじ補佐ほさをしました。

ときはじめて「兜率歌とそつか」がつくられ、新羅しらぎ歌樂かがくはじめとなり、百姓ひゃくしょうには農具のうぐこしら農業のうぎょう奬勵しょうれいし、くるまつくりて乗用じょうようきょうし、なつでもふゆこおりたくわぞう氷庫ひょうこ(※石氷庫せきひょうこなどつくりて、くに文化ぶんかはいよいよたかまつてきました。
やがて儒理じゅりおうあとに、脱解だっかい王位おういきました。

ちなみに、脱解だっかいはこはいつてながれてところが、阿珍浦アヂンポれて新羅しらぎ東海岸ひがしかいがんにあり、瓠公ここうとのあらそ月城げつじょう慶州けいしゅうはずれをながれて蚊川ぶんせんへだてて南山城なんざんじょうたいしてり、石築せきちくしろ當時とうじつたと

いま新羅しらぎ宮城きゅうじょう城址じょうしとして、半月はんげつじょうともばれ、そのなかには石氷庫せきひょうこ脱解だっかいおうまつ崇信殿すうしんでんなどがある。
なお王位おういゆずりのときの齒理のことにいては、朝鮮語ちょうせんご、「おう」は「イムクム」であるが、「イムクム」は齒理(イサクム)から轉訛てんかしたものであると

なお脱解だっかいおう在位ざいい二十二年にじゅうにねんおよび、遺言ゆいごんつて、水葬すいそうつてこれとむらのちかみ顕現けんげんつて、ほねこなにして彫塑ちょうそつて東岳とうがく大王だいおう(※東岳とうがく大帝たいていつくり、吐含山とふくやま(トハムサン)安置あんちせりと。」

朝鮮ちょうせん神話しんわ傳説でんせつ」より「せき脱解だっかい

以上いじょうが「昔脱解せきだっかい伝説でんせつ」になります。



せき脱解だっかい伝説でんせつ」の説明せつめい日本にほんめたもの

朝鮮ちょうせん童話集どうわしゅう

朝鮮ちょうせん半島はんとう二龍にりゅうともはこみちびいたかささぎは、日本にほんでは佐賀さが平野へいや佐賀県さがけん)に生息せいそくしていて「かちがらす」ともばれています。
また神武じんむ東征とうせい八咫烏やたがらすみちびきのかみ)」ともわれ、「熊野くまの牛黄ごおう宝印ほういん」のからすとしてもられています。

八咫烏やたがらす

そして「せき 脱解だっかい」の名前なまえ由来ゆらいかささぎ祝福しゅくふくしていたからとり」をり「せき」を苗字みょうじとしたとなっていますが、これは7がつかささぎれてあまがわはしつくり、織女しゅくじょ牽牛けんぎゅううことが出来できた(みちびいた)という七夕たなばた伝説でんせつにもつうじていました。

京丹後きょうたんご羽衣はごろも伝説でんせつ天女てんにょである豊受とようけ大神おおかみ
日本にほん朝鮮ちょうせんむすぶ「三日月形みかづきがた半月はんげつかたち)」
月城げつじょう半月城はんげつじょう)のあるじは「瓠公ここう」も「せき脱解だっかい」も日本にほんからの倭人わじんとされている

また瓠公ここう日本にほんから瓢箪ひょうたん漢語かんごではひょうたんをく)をこしけて朝鮮ちょうせん半島はんとうわたったとつたえられていて、こちらも「打吹山うちふきやま羽衣はごろも伝説でんせつ」の夕顔ゆうがお同様どうよう瓜科うりか植物しょくぶつ関係かんけいしたものとなり、この瓠公ここうはなしもまた日本にほん朝鮮ちょうせんをつなぐ羽衣はごろも七夕たなばた伝説でんせつ(「白鳥はくちょう処女しょじょ説話せつわ」)」となっていました。

王世子おうせし李王りおうぎん殿下でんか

天帝てんてい明治めいじ天皇てんのう陛下へいかおぼしによって、あいする織女しょくじょ朝鮮ちょうせん半島はんとうたみわか日本にほんなが修行しゅぎょうをしていた牽牛けんぎゅう李王垠りおうぎん殿下でんかは、このたびめでたくも天帝てんてい大正たいしょう天皇てんのう陛下へいか御許おゆるしをて、あまがわけられたかささぎはし漢江かんこう鉄橋てっきょうわたふたた織女しょくじょ出会であえることになりました(皇帝こうてい就任しゅうにんする)。」

白岳山はくがくさんふもと景福宮けいふくきゅう

このようあまがわ見立みたてられた漢江かんこうわた白岳山はくがくさんふもと景福宮けいふくきゅうまでのぼった場所ばしょに「朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ月宮殿げっきゅうでん)」が建設けんせつされたのは、「せき脱解王だっかいおう伝説でんせつ」になぞらえて、朝鮮ちょうせんからわたったたまご韓国かんこく皇太子こうたいし)が日本にほん孵化ふかして(日本にほん学問がくもんおさめて)朝鮮ちょうせん半島はんとうかっておよいでき、りゅう皇帝こうてい)となることを意味いみしていました。

これはまた「黄河こうが上流じょうりゅうの「龍門りゅうもん」とばれる急流きゅうりゅうのぼりきれたこいりゅうてんじててんへとのぼる」という、立身出世りっしんしゅっせあらわ中国ちゅうごく故事こじこい滝登たきのぼり」にもかっていました。

そのため事情じじょうっていたひとたちは「朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ景福宮けいふくきゅう勤政殿きんせいでんまえつくった」ではなく「序列じょれつおもんじる韓国かんこく文化ぶんか配慮はいりょして歴史れきしある勤政殿きんせいでん上位じょういである(偉大いだいなる先王せんおうたちに見守みまもられてまつりおこなう)ことをしめすためしたつくった」というかたをしていたのです。



せき脱解だっかい精通せいつうしていた地理学ちりがく

昔脱解せきだっかい精通せいつうした「地理学ちりがく」とは現代げんだい地理学ちりがくとはちがい、地相ちそう土地とち吉凶きっきょううらない)を中国ちゅうごくの「風水学ふうすいがく」や「陰陽いんよう五行説ごぎょうせつ」、そこから独自どくじ発展はってんした日本にほんの「陰陽道おんみょうどう」につうじる知識ちしきのことになります。

古来こらいよりこの学問がくもんもちいて、おかやまなどのたかところから土地とち見下みおろし、そこにひろがる河川かせん周囲しゅうい状況じょうきょう見定みさだめて土地とち利用りようめていました。

新羅しらぎ始祖王しそおう朴赫居世ぱくかくきょせ伝説でんせつ」でも、新羅しらぎのもととなったむっつのくに辰韓しんかん六部ろくぶ)は、てんよりくだった六人ろくにんかみおおきなやまにして、そのやまふもとにそれぞれちいさなむらきずいたことからはじまったとされていました。

白岳山麓はくがくさんふもと景福宮けいふくきゅうあたまとした「京城けいじょう(ソウル)のりゅう」は、くに重要じゅうよう任務にんむたっていた引揚ひきあ日本人にほんじん家族かぞくあつまりでは当時とうじ南山なんざんほかおかやまから市街しがい見下みおろすことによって確認かくにん出来できたとのはなしでした。

わたしちち場合ばあいは、おともをしてたずねた南山なんざん朝鮮ちょうせん神宮じんぐうから祖父そふゆびしながらりゅうかたちおしえられたそうです。

矢印やじるし 朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ 背後はいごやま白岳山はくがくさん 

その場所ばしょおぼしきものが「朝鮮ちょうせん神宮じんぐう写真帖しゃしんちょう」に掲載けいさいされている「南山亭なんざんてい裏庭うらにわよりの眺望ちょうぼう」になります。



新羅しらぎ古都こと慶州けいしゅう訪問ほうもんしていた皇族こうぞく

大正たいしょう15年(1926年)より新羅しらぎぱくせききん三王さんおう国享こくきょう開始かいし
併合中へいごうちゅうのため日本国にほんこく予算よさんしていた

朝鮮ちょうせ総督府そうとくふ庁舎ちょうしゃ竣工しゅんこうおなとし大正たいしょう15ねん(1926ねん)にぱくせききん三王さんおう国享こくきょうくにによる祖先そせんまつり)もはじまっていました。

ぱくせききん三姓さんせい陵墓りょうぼ
高松宮たかまつのみや 宜仁のぶひと親王しんのう 金剛山こんごうさん御探勝ごたんしょう

さらにおなとし大正たいしょう15ねん(1926ねん)9がつに、死期しきせまっていた大正たいしょう天皇てんのう同年どうねん12がつ25にち崩御ほうぎょ)のかわりとして、第三だいさん王子おうじ高松宮たかまつのみや 宜仁のぶひと親王しんのう金剛山こんごうさん訪問ほうもんしていました。

この訪問ほうもんについては引揚ひきあ日本人にほんじんあつまりで詳細しょうさい機会きかいめぐまれませんでしたが、訪問ほうもん場所ばしょである金剛山こんごうさん日本にほん三保みほ松原まつばら羽衣はごろも伝説でんせつおな羽衣はごろも伝説でんせつつたわっていた場所ばしょであると同時どうじに、スサノオノミコトのりた新羅しらぎ曾尸茂梨そしもり候補地こうほちひとでした。

新羅しらぎ古都こと慶州けいしゅう

さらに翌月よくげつの10げつにはせき脱解王だっかいおうまつられた慶州けいしゅう訪問ほうもんしていました。
また、大正たいしょう天皇てんのう崩御後ほうぎょごおこなわれた「大正たいしょう天皇てんのう御大葬儀ごたいそうぎ昭和しょうわねん・1927ねんがつ・8執行しっこう)」の葬儀そうぎ総裁そうさいつとめた閑院宮かんいんのみや 載仁ことひと親王しんのう昭和しょうわねん(1929ねん)におなじく慶州けいしゅう金剛山こんごうさん訪問ほうもんしていました。

半月城はんげつじょう鶏林けいりん皇龍寺こうりゅうじなどを訪問ほうもんしていた

皇龍寺こうりゅうじは、五行説ごぎょうせつでは万物ばんぶつ中心りゅうしんあらわ黄色きいろりゅう黄龍こうりゅう皇帝こうていしめりゅう降臨こうりんしてつくられたとする伝説でんせつのこ新羅しらぎ仏教ぶっきょう重要じゅうよう遺跡いせきになります。

慶州けいしゅう古墳こふん案内図あんないず


日本にほん朝鮮ちょうせんをつなぐ龍蛇りゅうだ信仰しんこう

高等こうとう小学校しょうがっこう国史こくし課程かてい新展開しんてんかい
多婆那国たばなのくに但馬国たじまのくに現在げんざい兵庫ひょうごけん北部ほくぶ)とするせつ大壁画だいへきが 羽衣はごろも制作者せいさくしゃ 和田わだ三造さんぞう出身地しゅっしんち兵庫ひょうごけん北部ほくぶ朝来あさごである)

朝鮮ちょうせん半島側はんとうがわの「出雲族いずもぞく」とされていた「李王家りおうけ」。

りゅうみちびかれ日本にほんから朝鮮ちょうせん半島はんとうはいった「新羅しらぎ第四代だいよんだい せき脱解だっかいおう伝説でんせつ」。

漢江かんこうよりてんへとのぼりゅうあたまかたちをした「りゅうぐう」の「景福宮けいふくきゅう」。

その勤政殿きんせいでん天井てんじょう日清にっしん戦争後せんそうご清国しんこくより完全かんぜん独立どくりつしたあかしとしてえがかれた「皇帝こうていりゅう」。

さらに、日本にほんがまとめた「歴史れきし民俗みんぞく朝鮮ちょうせん漫談まんだん」にものこされている重要じゅうような「龍伝説りゅうでんせつ」がありました。


本日はありがとうございました。



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